novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

「文化の盗用」は何に適用されるべきなのか

言語の使用止めようぜとまでは言わないけど漢字の利用は止めようぜとかアルファベットの利用は止めようぜくらいは許される気がするというところまで突き詰めて考えるとアホらしいけど真面目な話なのかもしれないのは利便性を捨ててオリジナリティを取った朝鮮語の例とかがあるからなんですが、便利な発明品はシェアすべきという話と特許の話と意匠の話はごっちゃにすると事故りそうだしチェックの柄や紋章やらについては単にカッコイイとかでみんなが使っていいかというと難しい話なのは家紋の話とかそのへんが明治維新でどうにかなっちゃったんじゃないかと思う日本ではいい加減な話になっている気はします。

肌の色とか髪の毛の色は差別とアイデンティティ証明の狭間でひどく難しい問題になってしまっているような気がするけど、結局のところ真似ることがリスペクトの証かどうかは文脈によって異なるので「黒塗りにするのは差別」という短絡的な結論づけはかえって差別を助長するような行為でしかないと個人的には考えています。肌の色が違うことが「生理的に気持ち悪い」時代はもう乗り越えられたと思っていますがどうでしょうか。であれば、黒塗りにして何かを表現する話は明らかに文脈依存になっているはずです。本来は。といっても、そうなっていない人たち向けに発信している可能性はあって、なんだったら両面待ちな可能性すらあるのでそのあたりはメディアに根を張る病巣なのかもしれないけど。

ともあれ、過度に誤解を避ける行動を慎まなければならないとするのは現代の病理ではあるし、「意図が伝わらなかった」の言い訳が無条件にリジェクトされるのも同様だと思います(一方で意図が伝わらないという言い訳が大抵の場合筋が通らない使い方をされることも事実ですが)。衝突なしには和解はないので、争いを避けることだけが問題の解決方法ではないですよね。

話がそれましたが、じゃあ、外国人が着物を来たり日本人が金髪にしたりするのがどうなのというとどうもこうもなくて、着物で言うと日本人が普段からもっと着物を着てたらなんのことはない話だと思うんですが、一方で白人だって金髪に染めてるわけで、家紋やらチェックの柄やら紋章の話とはだいぶ違うわけですよ。外人が箸でカレーライス食べたら(そういう人いるんですよ…)文化の盗用というのか?みたいな。

まあ万事がハイコンテキストな日本において、その文脈の共有できない事例が増えてくるグローバルでウェブな時代の処し方というのは個別に考えていった方が良いのかなあと思いますが、欧米における「リスペクト」もそういう点ではかなりハイコンテキストなものだと思いますし(なのでよく揉める)、それを成立させるためには深い教養が必要になるという点においてグローバルではオタク同士の共感が最も深まりやすい(ソース無し)というのは留意すべき点かもしれません。

とにかく、この手の問題については「一刀両断に切って捨てる」が最悪の解決策だと思うので意見が割れてもめんどくさがらずに気持ちをぶつけ合うのがよいんじゃないかなー。

「Googleが正しい時代」なんてあったんだろうか

mubou.seesaa.net

ごもっともなお話ではあるんだけど、じゃあ昔の情報は品質の高いものがトップに来てたのかというと、金稼ぎの単なるゴミがあんまりなかっただけで、「ネットde真実」に溢れてたんじゃなかったでしたっけねえ、と思ったりします。んで、今問題になっているような医療情報とかそういうのってそもそもなかったかクローズドが多かったし。
ググレカスってのはググったらすぐ分かる程度の情報すら検索しようとしないアホンダラに向ける言葉だし、今だってその程度の調べ物であればググったらwikipediaがトップ(というか右側ね)に出ることが大半だし、そうじゃない検索は確かに昔よりゴミの山だけど、昔から検索にはコツがあって、それを外したら結局のところゴミにたどり着くことが多くて、逆にそのころ正解に近いものにたどり着くようなキーワードなら今も正解に近づくことが多いと思ってるんですよね。

とはいえグーグルの検索結果は(あの大量の「同一記事のまとめ」を排除できない時点で)クソだが。

しんざきさんが言うところの「権威主義からの脱却」ってかつては集合知と言われたものの一部だとは思うんだけど、集合知が真の知であるためには良質な「権威」からの情報が流れ込んでこないとダメなはずで、そこで歪みが生じるとネットde真実に早変わりしてもらうものであるというのは当時から認識されていたのではないかと思うけど、いずれにしても、我々がネットに期待していたことは「権威の不当な圧力によってシャットアウトされてしまう情報をなくす」ことでしかなかったし、その真偽を判断することはずっと受け手の責任であることからは変わってないと思うんだよなあ。

がん患者の身内から見たQOLについて

去年だいぶいろいろなところで議論になっていた過剰診断(主にガン)の話ですが、実のところ、全く他人事ではなかった(前のエントリ参照)ために、トンチンカンなことを言う輩に対して静かに怒りを燃やしていたのではありました。

さて、母がかかったガンは

  • かなり珍しく治療法が確立されていない
  • 見つかった時点での死亡率激高
  • 通常の検診ではほぼ見つからない

というものでした。さて、この手のガンのQoLを上げるためにはどうすれば良いんでしょうかね。検診をもっと精緻にやる?多分そうではなかろうというのが我が家の結論ではあります。つまり、もっと早くに見つかっていたら死ぬまでの期間はもっと長かったかもしれない。けれども、効果の分からない強い抗癌剤(ちなみに、今回は結果的に確実に進行を止めていましたが、回数制限があるので利用をやめた途端進行しましたね)で味覚に障害がでる副作用があったので食い道楽(一般的な意味ではなく、食べるのが何より好き程度ですが)な我が母にとって長期間の闘病は死ぬまでの期間が伸びたところで生きる意味をあまり持たなかったのではないかと思ったりもします。病気が発覚する(=その時からもうあまり食べれなくなっていた)直前の期間まで好き放題食べてきた時間が大事だったのではと。とは言え、そうなる前に心残りなく食べるという期間が取れなかったという悔いはありますね。
治療しても生存率が変わらないものに対してQoLを下げる治療を無理に行うことは難しい決断です。QoLのことを真面目に考えるのであれば「介入せざるを得なくなることによるQoLの低下」は大きな関心ごとのはずですが、あるときは寿命、あるときはQoLで二枚舌を使い分けて過剰診断の害を否定するような人たちの目的は謎でしかないんですよね。闘病期間が長ければ長いほどインチキ両方に縋る可能性も高まります(本人が否定しても家族が諦めきれない場合とか)。比較的冷静に判断を行った我が家ですら、あと2年余命があったら誘惑に耐えられなかったかもしれない。

割り切りが難しいからこそ、割り切らざるを得ない状況で発覚したのが良かったのかもしれない、と思っています。