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novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

今になってUI/UXとCSS/JSがなだれ込んでくる

IT

まあ色々トラブルありまして。

非常にコンサバな業務界隈にいますと、未だにせいぜいStruts的なものでJSPをベタに書いてJSがデザインに寄与しない機能性だけのものを実装してなんだったらフレーム使ってデザインされているようなシステムを触り続けるようなアレになりましてですね、Java-Webエンジニアと言ってもそういうコンサバなシステムしかわかんねーみたいな状態になるんですがそんな中で最新型UIのWebシステムを作るような仕事でコードをいじらないといかんとなると流石に厳しい…と思っていたんだけど人間やればなんとかなるもので音を立てて知識が流れ込んでくるわけですね。XX歳定年説とかどこ行った。

まーでも所詮作ってるものシステムだから、そこにコードあるだろ?って状態までいけばなんとかなるもので、都合により人が作ったものを引き取って改修するだけであればまあなんとかなっちゃうもので。むしろコードだけいじってる若いのが全然ついてきてくれないわけですよ…どーなってるかわからんってしばらく眺めてればわかるんじゃない?的なところでも。

コレってでもベースラインの積み重ねがあるからこそなのかもしれんとは思っていて、なんかこう、セオリーから外れると何もできなくなっちゃうような人って仕組みの部分とか全然押さえてないんだよね。そこは最新のUIやっていようが関係ない気はした。でも僕も10年前の応用なんだけどな。その頃積み上がっていたかというと全然だし、そこにある差異がよくわからない。好奇心の範囲、というのが一番大きいのではないかと思っているけど。

安易に感動ポルノって言うのそろそろやめない?

Web 社会

よく出来た言葉ではあるんだけど、なんでもかんでも感動ポルノってことにしてしまうと、そもそもの意味が揺らいできて、かえって批判が容易な言葉になってしまうってのが他の新しい用語と同じような道を辿りそうな気がしてならない。

感動ポルノ批判の最右翼に「だから障害者に配慮する必要なんてないんだ」みたいな言説が出てきてクローズアップされたこともあったように記憶している。そうじゃなくて、「感動に値する存在であるべき」みたいな押しつけをやめてくれろという話でしかないはずなんだよな。

こういった言葉がカジュアルに蔓延すると、当然だけど感動を誘うものは全部感動ポルノみたいな雑な話が出て来るし、批判する側も雑なところを批判して元の言葉を批判した気分になって結局ネガティブイメージしか残らない、ということはよくある。
こういうあまりに分かりやすい言葉は原義とは関係なく字面で汎化されて広まっていくからね。

ただね、それはそれとしてそもそも感動は消費するべき感情だと思うんだよな。じゃなければ、こんなに世の中に表現が溢れていない。よく、無人島に持っていく1冊みたいな話あるけど、それ本当に無人島で永遠に読んでられる?とかさ、人間は感情を作り、消費し、また作り、というサイクルを繰り返して生きている人が大半だし、世の中はそれができるように作られている部分が多々ある。だから、感情を消費することは人間において食事や睡眠と同様に大切なものであるしそのサイクルを適切に回すことは必要な人のほうが多いと思うんだよね。元々感動ポルノって言葉を僕らに提示してくれた人のスピーチが感動的である、ということをどう考えるべきか。
無駄に演出されず、それの影響によって役割を強制されず、無意味な汎化をされないという条件のもとであれば感動を与える行為というのは世の中に貢献しているんじゃないかな。別に障害者が主人公だったり重要な役割の物語が感動的であっていけないわけではないのだよ。

いじめ被害者と加害者の赦しについて

社会

犯罪者とかそうだけどさ。なんどか書いているつもりだけど、赦しってのは免罪とは違うんだよね。罪は罪として、一生背負い続けなければならないし、そこに向き合うことも必要で、それは同様に被害者側の負担を軽くする行為でもあると思う。

で。

山本弘氏は、自らの発言の最初で「いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと」と言っています。これはつまり、自分は、十分更生したなら、たとえ自分をいじめたいじめ加害者でも許すということでしょう。もちろん、山本弘氏が自分自身の意志でそういう選択をすることは否定しません。
僕が「おかしいんじゃないか」と思うのは、そうでない考え、つまり「自分はいじめ加害者が例え更生したとしても、その人のことを許しはしない」という、自分の考えと異なる考えを、「危ない思想」として否定することです。

「反省したいじめ加害者のことを『許さない!』と、いじめ被害者が主張するのは、危ない思想(by山本弘)」なのか - あままこのブログ

多分。多分だけど、これは僕の解釈とはちょっと違っていて、被害者と加害者の問題を「外野がこうでなければならないと規定するべき」ということが「危ない思想」と言っているんだと思う。id:amamakoさんの考えとほぼ一緒だと思うんだよね。
『聲の形』に最初に出た大きな批判が「加害者があんな形で許されるべきではなく、被害者とくっつくべきでもない」的なやつだったからって背景を考えると山本氏が言っているのは「外野の声」のことだと僕は解釈すべきだとは思う(あの人そういう批判を拾って言っているんでしょ)。

で。

まあね、人間は過去はどうあれ、現在を見るべきだと思う。ただ、その現在と言うのはもちろん過去の積み重ねで成り立っているわけであって、人を虐めていた過去を「昔はやんちゃで」とかそういう類の箱に押し込めて自身の行為と向き合っていない「現在」があるのであればそれは赦すべき成長を遂げていないし、そうではなく、きっちりとそういった過去に向き合った結果、人間とはこうあるべきという考えに従って人生を歩んでいるのであれば、それは認めてあげようよ、とかそういう話にすぎないんだけどね。

だから、あの映画に対する加害者が許されることについての批判が「正しい」社会は僕も危険な思想を孕んでいると思う。