novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

最近食べたラーメン二郎

だいぶ前不愉快な思いをした結果しばらく行ってなかった桜台二郎も最近はちょいちょい行くようになったのですが、今年に入ってからたまたま仕事で他の二郎の側に行くことが多く、結果的に二郎巡りを何軒かしてしまいました。

品川二郎

ちょっと量が多かったなー。麺も野菜もね。割りとオーソドックスな感じなんだけど、いわゆる二郎の味と麺の方向性とはちょっと違うような気がした。

三田本店

15年ぶりくらいに行ってきましたよ。感動的ですね。コップが変わっていることに時代を感じましたが、おやじさんは元気そうで何より。
で、相変わらず雑な感じでドーンと豚が入っているし(昔はもっと固くてまずかった気がするけど、これは豚肉そのものがだいぶ変わったんだろうな)、野菜の盛りももやし比率も相変わらずですが、とにかくまあこれが二郎だよなというスープの味。これなんだよ。だから僕は桜台二郎に行ってしまうのだろうな。

荻窪二郎

方向性的にはひばりに近い味。つまり、旨味が過多な感じ。旨味が先にガッツリ来られるとどうも二郎って感じが薄れ…はしないけど、ちょっと違うよね、と思ってしまう。

桜台二郎

なので、スープで食わせる感が本店に近いのはやっぱり桜台。でも桜台最近助手一人営業とかそれは反則な気がする(店主いる率は一時期よりはだいぶマシだけどさあ)。

同じ様な食い物でもなんでこんなに味違うんだろうね、単純そうに見えるんだけどね。二郎は奥が深い。

いないほうがマシ問題を今更ドヤっても

日本にはかつて(今もいると思うけど絶滅危惧種かな?)窓際族という人たちがいました。何もせず、給料だけ貰う。出世コースから外れて鬱屈しているパターンもあれば、仕事をしなくて金をもらえて嬉しいってい人もいたよね。

んでさ、問題は最低限の保障だけして「無理に働かせない」なんだよな。つまり、この思想は「無能は最低限の収入だけしかやんなくていいんじゃね?」とほぼ同義である。働きたくない人には、と言っているけど、「いないほうがマシ」という言葉に「いなくなってくれ」というニュアンスしか感じないよね。これだけでもこのツイートは批判されるべきだとぼくは思うんだよな。穏健な選民思想に近いと思ってしまう。
なお、このことは、別にそれでもいいやと思う人がいることとは矛盾しない。

ベーシックインカムって別に無能を社会で飼うための仕組みじゃないんだよ。もちろん、無能が社会に出たかったらBI貰いながらスキルアップせよってことなのかもしれないけど、ぶっちゃけ社会のスキルは社会にいないと身につかないんだよ。

で、いないほうがマシ、という話自体はもちろん正しい。(ある現場にとって)生産性がマイナスな人間というのはいるのだ。客先常駐の現場にももちろんそういう人はたくさんいて、いてもいなくてもなんとかなる仕事をしていたりする。これ実質会社によるBIみたいなものじゃね?良かったね(給料がそれなりに出ているので)。

そういう意味では、実は日本の社会はその点で後退しているとすら思う。ようは、効率化だ雇用の流動化だなんだかんだ言って「いないほうがマシ」な人を働かさせざるを得ない、ということね。無能は窓際、で良くないのかしら。原始的な社会保障みたいなものだよね。

というような話をするのも傲慢と言えば傲慢。でも、そういう人たちに対してもどうにかしてバリューをつけて仕事をしてもらおう、と頑張っている人もいるわけだからね。保障が最低限ってのがとにかくこの話とかみ合わせ悪いんだよな。

PR記事はなぜ嫌われるのか

タイトルPR問題って結局のところ噛み合わない点がそこに尽きるんだと思っている。

実のところ、僕にとって、「PR記事だから嫌い」という感情はさっぱり理解不能なものなのである。というか、広告が好きなのである。(テレビCMというわけじゃないよ)大体、ほぼ日とか好きな人結構いるでしょ(僕は見てないけど)。

コピーライターの人たちが何気なくえぐり出す非日常とかも好きだし、(最近あんまりあれだけど)パーツ屋が隣の店に負けじと繰り出す広告も好きだし、メーカーが開発に苦労した話を見るのも好きだ。うちの製品がよそに比べて以下に優れているかのアピール(昔はだめだったこともあるよね)も好きだし、あ、こんな商品が成立するんだーというのを見るのも好きだ。

一方で、広告に無理やり誘導されるのはあまり好きじゃない。だからテレビCMって「番組に集中」しているときに流れるとイラッとするし、お茶の間の時間的なところでダラッと流れ続けているのは好きだ。ネットサーフィンをしているときに何気なくたどり着いた記事が広告記事でもかまわないけど、押す気のないバナーを無理やりに近い形でクリックして辿り着いた先の広告は滅びれば良いのにって思う。

つまり、僕にとって広告が嫌いなのは、広告だからではなく、無理やり見せられるからだ。とすると、PR記事が嫌いでクリックもしたくない、という人の思いはもしかしたら広告記事とわからずクリックする行為が「無理やり」に類するものだからなのかな、と想像はする。

でも僕は思うんだよね。じゃあ、そのクリックって必要だったの?って。

僕はインプット重視の人間なので、たとえ行った先がなんの価値もないクソ記事だったとしても、行ってみるということが大事だし、まあ行き先のクソさ加減が100%に近ければもうその名前のところには行かないってだけではある。だから、タイトルのPRって入っていることは判断の一つとしてはそれなりの重さを持っているのだろう。でも、それでPRが付いているところには全く行かない、ってのはもったいないとすら思うんだよね。時間の無駄?ならばネットで知らないところにアクセスすることはもうやめようぜ?信頼のおけるポータルの信頼のおける、自分好みの記事だけ読むってのはそろそろできるんじゃないかな。なんだったらウェブやめて書籍だけに絞ってもいいんじゃないかなあ。

とはいえ、僕だって「なんだPRじゃん、時間の無駄だった」と思う記事もあります。製品の記事で言うと「とにかくすごいんです」としか言わないやつとか。情報度0。まあアフィサイトとか大半これだったりするけどね。今の検索上位の比較系アフィサイトなんておんなじフォーマットの記事でメーカーごとにこのメーカーがおすすめとかやってるじゃん死ね検索に出てくんな、とか思うけど、それをメーカーの記事がやっちゃダメだろ的な。まあインチキメーカーだなという重要情報がインプットされるという意味では全く無意味ではないですが。

質の良い広告記事は世の中に寄与すると思っているので広告記事ライターの人は逆風やクソクライアントに負けず頑張って欲しいものです。