novtanの日常

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東京入管の横暴について

togetter.com

もとより僕はこの問題についての専門的知見を備えているわけではないので、あくまで感覚論に過ぎないんだけど、それにしても今回のこの問題については関係各者(特に入管の職員)の対応がめちゃくちゃなようにしか見えない。

内部の状況があまりに公開されていないことでかえって外部の想像はたくましくなるし、状況証拠で判断するとひどいとしか言えないし、(そうは思ってないけど)現場に張り付いている人が嘘をついていたとしてもわからない。

こういうのは特に問題になっているときはきちんと情報を公開するのが筋(少なくとも、この事案はそれをやったところで国家の安全保証上の問題が出るとは思えないし)ですよ。それができないのは「都合が悪いから」と捉えられるのは別に下衆の勘繰りでもないと思うわけ。

これだけの大事になったから流石に病院に連れて行ってもらうことは出来たけど、今までの事例であれば、死んでから死んだとだけ発表されてもおかしくない話ではある。

お役所が少ないリソースでやりくりしているのもわかるし、全員を監視して逃げられないような環境を作ってひょいひょい救急車に乗せるというわけにもいかないのはわかっているんだけど、だからといって人が死んでよいという理由にはならないよね。少なくとも、今、こういう事象に対応するリソースが足りないから「しょうがない」というのは思考停止だし、ちゃんとエスカレーションしているのか、仮にしているとしたら政治家はなにをやっているのか、ということは明らかになっているべきだと思う。

市民による監視、というのは絶対的に正しいものではないけれども、監視をされている、という意識で動かすためには必要なんだよね。もっとも、それで正しく動くというわけではなくて、組織防衛に動いてしまう可能性だってある。そういう点ではやっぱり市民による政治の監視も必要だしね。

ウェブが排除してきたボーダーライン

2000年代の半ば、僕がよく考えていたのは「ウェブは世界の距離を縮めた」ということだったんだけど、それは正しくて、2010年代に入って世界の距離は必要以上に縮まってしまった。元々、文化にはローカル性があり、価値観にもローカル性があるんだけど、今の時代はグローバルに通用する価値観(これ自体はかなり言葉としては嘘をついていて、単に「欧米リベラルの価値観」でしかないんだけど)以外の提示はすぐ批判にされされる世の中になってしまった。

僕としても、基本的な態度としては「そんなのをウェブに公開するほうが悪い」と思っている一方で、特にここ数年についてはどこで何をどんなに慎ましくやっても、ウェブに筒抜けになる、という事例が増えてきている。僕たちは色んな所で住み分けをすることでローカルルールに基づく社会を形成してきたんだけど、その箍が外れかけている。ウェブによる新しい箍は大きな桶を囲おうとしすぎていて、ちゃんと締まらない。僕らは境界線の中で暮らしたいのに、ウェブはそれを安々と越えてくる。これこそが破壊的イノベーションなのだ。イノベーションにおいては破壊されるものがその境界線を持つ人々にとって価値があるかどうかを評価しない。

これは何を意味しているか。みんなが忌み嫌う「監視社会」だ。あれほど政府による監視や規制を嫌がった結果できあがったのがそれだ。別に権力による監視が正しいと言うわけではない。でも、そういったものに反発して作ったはず(これは正確ではないが)のインターネットは、現実的には我々の生活を監視社会に導く最も効率的で効果的なツールだ。

おまけに、この結果は権力に利用されそうだ。ボーダーラインを破壊し尽くした結果として、単なる友人との冗談も、単なる心情の吐露も、単なる痴話喧嘩も、単なるイタズラであっても、監視され、取り締まられ、規制される。これからのウェブは人々の活動を窮屈にすることにしか寄与しない。

単に「誰か」が傷つくといった理由で犯罪になってはならないし、単にイタズラURLに誘導しただけで犯罪になってはならないし、誰もが見破れるジョークが犯罪になってはならない。ウェブはウェブでしかなく、人間そのものでも社会そのものでもない。この侵食の度が過ぎることに対して隣人の監視をしやすくするシステムを提供している企業を規制するのであればともかく、人間を規制してはいけない。

追記

どうも読み違えられそうなので言っておくと、現実→Web方向への展開の度が過ぎる、という話だし、Webでも完全クローズド以外では適用される話だし、ダークウェブとかはどうでもいい話です。

当事者にとっては0か1しかない、から脱却するのは難しい

この手の言論は非常に不誠実だとは思っていて、例えば10000分の1で当たるくじを引く人(なお外れたら大きなペナルティを負う)に対して「世の中には2タイプの人間しかいない。くじが当たるやつと当たらないやつだ」と言ってくじを引くことを推奨するのはクソ野郎だよね。
これを逆さまにして、10000分の1で当たってしまうくじ(当たったら大きなペナルティーを負う)を引こうとしている人に「万が一当たったらまずいんだから引かないほうがいいよ」というのは一見誠実な言動に見えるんだけど、仮に外れを引いたは別のくじを引かなくてはならなくて、そのくじの当たり確率は20分の1です、なお、前のくじを引かない人が増えると当たり確率は増大して3分の1くらいになります、ということを説明していないんだとしたらこれもクソ野郎なわけじゃないですか。この「万が一」を0か1のリスクと見做してこの部分しか見せないまま衝撃的な事実として不安を煽るというのがクソ野郎のやり口なわけじゃないですか。
このような言説に乗っかっちゃう人はもちろん愚かしいんだけど、情報の非対称性と不安という2大判断力奪取装置を使って煽るわけですから、0か1かって思い込んじゃう人たちを手放しで非難することは難しいわけで、ここは煽っているクソを徹底的にやっつけるか、実際の被害が出るまで生還するか、のどちらかしかないんですよね。もちろん、当事者の人たちは緩やかに説得する必要はある。後続のリスクの恐ろしさのほうが勝ることが納得できれば、ですね。

でも、この後続のリスクがこのようにわかりやすいってことはほぼないわけです。だから俄に最初のリスクを知ってしまった人は後続のリスクを冷静に評価することは難しい。何しろ、最初のリスクに不運にも当たってしまった当事者が「ヤメロ!!」って警告するわけですよ。これは怖いよね。
ちなみに、ここでの例は過度にわかりやすい話であって、実際のリスクってのはこんなにわかり易くないし、こんなに差が出ない(相対的なリスクさが小さい)場合も多いし、リスクを侵して得るリターンがわかりにくいってこともある。リスクとリターンが見合っているか、についてはっきりとした結論が出ていない分野も多々あるし、そういうところでリスクを侵す危険性を言い立てて他の相対的に相当小さいリスクについても同じ問題がある、とか言い出す人は信頼に足らないんだけど、そうである、ということを見抜くことも大変なんですよね。

ということまで考えていくと、公衆衛生において最も必要な心理コントロールは「不運にも万が一に当たってしまった人」に対してのものなんだろうな、と思うわけですね。これは難しいよね。

身もふたもない話をすると、「私が死んでも代わりがいるから」な時代であれば諦めがつくリスクだったかもしれないものが、少子化の時代において受け入れたくないリスクに昇格していて、冷静な判断ができなくなっている「時代」と捉えることもできる。この手の話は本来社会学者が分析すべき領域だと思うのだけど、なぜかニセ医療や間違ったリスクの流布にせいを出す人がいるって事実自体が僕にはおかしな話に思えるんですけどね。

こういうことを言うとまた上から啓蒙だ傲慢だみたいなことを言う人も現れるんだけど、そもそもリスクを評価する、ってのはものすごい時間もお金も思考回路の消費もいることだけど、それを頑張って専門家の人たちがやっているわけで。だからそれに反対するということが如何に大変なことであるかを理解しないまま、ただ怖いってだけで反対している人たちを正しく導くには上から行くしかないわけですよ(気持ちには寄り添うとしてもよ?)。

正直なところ、手間を考えるとバカになって行政に従うのが一番低コスト低リスクになる、というのがあるんだけど、一方で公害病とか、薬害エイズとかで行政も相当やらかしているので無条件に信頼する訳にはいかないよね。誰が信頼でき、誰が誠実であるか、を見抜くのは非常に難しい。往々にして一番親切で信頼感のある存在は詐欺師なのですから。