novtanの日常

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ブログは「個人の」日記という違和感からブログとは何かを考える

もとより日記は個人のものですよね。

ウェブの書き込みなんて便所の落書きだとかチラ裏に書いとけっていう言葉も過去のものとなりつつある2014年、いまさらブログの定義を改めて論争するつもりでもないですけどね。

ここでいまさら「個人の」という言葉を使うことは、全くわからんということでもないんですよ。曰く、ウェブは公共空間である、という向きにとっては「個人の」日記って塵に等しい価値しか持たないかもしれませんね。ウェブに書かれるものは少なからず他人にとって価値があるものであるべきと。

そういう視点では「個人の」日記というのは本質的には他人に見せるようなものではないのではないか。つまり、ウェブに「個人の」日記があるのはおかしいと。

ここで言う「個人の」とは閉じたものであると考えると僕もそうかなーって思うんですけどね、例えば「退職しました」エントリが閉じているものかというとそんなことはなくて、むしろアナウンスという意味ではまさにウェブ的な何かなんですよね。まあ、あの件は「俺の読みたくないものを公開するな」という単なる我侭ですけど(断言)。

さて、じゃあブログに書き残すべきものは何なのか。仮に僕が日記として使ったとして、それは全世界に公開すべきものなのか。そこのところを考えてしまうと、本当の日記ではない場合のほうが多いですね。公に内心を吐露するというのは往々にして不適切なものですから。

であれば、そこに書かれるのは単なる「ログ」かまたは「発信」であるかのどちらかにしかなりえないとは思うんですよ。つまり日記というか記録、あるいは意見。

「普通の日記」をどこまでブログとして書けるのか(自己開陳芸でもない限り)みんなそれなりに考えていると思いますし、人によってそのボーダーラインはだいぶ違うとも思うんです。そういう意味では「個人の」という言葉による制約は感覚的にはわかるんですよね。個人の日記書くなよと。
日記というのはもう少し広い概念だとは思うので、人それぞれの基準による「普通の日記」がブログに書かれているというのはピンとくることでもあります。「個人の」になると、そんなもの見たくないし見せちゃいけないんじゃない?という畏れみたいなものも出てくるわけです。

言葉のニュアンスについてのいい加減な話ではありますが、個人という空間をウェブのどこにマッピングしていくかというのはひとつの重大な課題であって、2013年を賑わせた炎上事件の数々はまさにそのマッピングすべきサービスを誤っていたことが原因とも言えましょう。なので、ブログにマッピングされるものが何であるか、というのは古くて新しい話題であり、TwitterやらSNSやらでマッピング先が変わったのと同じような話がこの先も出てくるんでしょうね。