novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

話を面白くするためのウソには必ずオチをつけるべき

いい話論争にも近い話だと思いますけれどもね、人を楽しませる、あるいは感動させる、ということについてフィクションとノンフィクションの文脈というのはたいへん大きなファクターであるということはいくつかの炎上に近い事件を目にしてきた皆さんの経験上でも明らかでしょう?

痴漢冤罪で社会から抹殺されかけた。 - 自省log
個人ブログの嘘はどこまで許されるのかなって話 - ネットの海の渚にて
作り話をさも体験談のように語る弊害について - ←ズイショ→

僕、id:juverkさんの積み木を天井まで積んで最後にガシャーンってやる芸風(とかってに思っている)が好きなんですけどね。

で、今回の話が本当か嘘か、嘘だったらそういう話書くのってどうなの、的な話。

いわゆるネタブログに分類される中の人が本当の話を書く、あるいは嘘の話を本当の話と偽って書くときに「ネタブログの人だからなー」って思うのって普段からその人を見ている人すなわち文脈を共有している人で、そうじゃない場合ってid:Delete_Allさんの書くお話ですら1から10まで事実であることを前提に受け取っちゃうことすらありますよね。もっというと、僕がいつも盛大にずっこけてるid:juverkさんのネタエントリーですら、マジに受け取っている人がいるかもしれませんね。

友達同士が冗談で死ね殺す言っているだけでも通報されかねない殺伐としたインターネッツにおいて、ネタエントリーをネタ文脈でのみ受け取ってもらえることは幸せなことなんじゃないかって思うんですよね。虚構新聞なんてサイトのタイトルでそういう特権的な地位をきっちり持っているのに自らそれを損なうようなことをしてしまうことも多くて実に残念ですよね。

古参のインターネッター(ネットサーファーと言うべきか)諸氏にとっては、インターネットの特にテキストサイト全盛期のメインのコンテンツはおもしろネタであるのではないかと思っていますけどね、それは住み分けが出来ていたという話でもあります。なぜかって言うとブログとソーシャルメディアというのがなかったし、Googleもそれほど使われていなかった世界においては、どこかにたどり着くためにはジャンルで分類されたリンク集をたどって「ページではなくサイト」に到達して、「サイトの管理人の書いた文章」を読んでいたからですよね。この手の話はすでに言い尽くされている気もします。

文脈が薄まっている世界においてウソかホントかわからないような話を書くのは色んな意味で面倒事を背負い込む結果になります。いくら僕達が「アレはネタなんだからさあ…」と外野で言っても苦労するのは書いている当人だけです。なのでそういうリスクを自覚してやっていくのであれば別段何がいいとか悪いとかいう話じゃないかなって思うんですよね。

実話、実話風のお話って、感情に作用することが多いので、反応の振り幅が当然デカくなります。だから、それを上手く収めることが話者に与えられた使命です。落語で言うオチとかサゲってのは振れた感情を着地させる機能を持っています。オチのない実話が実話じゃないとわかった時の反応というのは乗ってる飛行機から放り出されたようなものなのでそりゃあ怒りますよね。ネタ文脈を共有している人はそれが遊園地の乗り物であることを知っています。存在しない目的地に辿り着かず永遠に回転しているだけであることを知っています。

「本当の話」を書くのはなぜか。面白かったこと、悲しかったこと、嬉しかったことを伝えたいのか、それともその体験を通じて何かを訴えなければならないと思ったのか、そこに感情は必要なのか、というあたりをきちんと考えた上で上手くネタにできればよいのですが、本当の話って書いている当人も感情が振れやすいものなので、つい目的を見失ってしまいがちですよね。

話を面白くするためのウソと事実をぼかすためのウソは機能性が全然違いますよね。前者を使う場合、きちんとしたオチをつけるつもりがあればそういったもので脚色することも可能だと思います。もちろん失敗すると単なるネタエントリーの非じゃないくらい批判される可能性が高まります(虚構新聞が炎上するときは大抵こういうパターンな気がします)。後者は身バレ回避とかのための本題とは関係ない部分でのウソなのであまり批判には絡まないと思いますし(矛盾を指摘されることはありうる)。

その辺りの一貫性くらいを意識して書いていくのがネタ系ブロガーとして必要なことかもしれません。