novtanの日常

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文化的民度が落ちぶれたのではなく単に場の問題ではないかと

例えば、クラシックの干渉における場の設定バリエーションのなさ加減を嘆いたりは僕もしている。

クラシックと「場」 - novtan別館

自らが体験しに行く文化の形態を意識し、同じ空間を共有する観客として表現者に対するリスペクトをする姿勢の消失である。

日本人の「文化的民度」が落ちぶれ、いつまで経っても向上しないという深刻な問題について - ボン兄タイムス

引用元エントリの考え方の基礎になっているのはこの一文に尽きると理解しているけれども、「場」を理解するというのは一朝一夕にはできることでは無いと思っている。

特に、日本人の「空気読む力」は権威や多数派に敏感な力でしかなく、その場が何を要求しているかをその場本来の文脈から読み取るなどという高度に教養が要求されるような力はもともと大してない。クラシック音楽については冒頭に示したエントリで挙げたが、ニワカ階級社会が一方的に持ち込んだ一部のルールを全体に敷衍したことが原因の惨状ではないかと推測している。そもそも、庶民の文化であり帰属の文化であり芸術でもある、という経歴をたどっている音楽のマナーやルールというのは極端に場に依存しているけれども、その場が持つ文脈そのものを文化として輸入できているかというとそんなことはない。

歌舞伎が掛け声を掛けられるのはそれが「日本の」伝統文化であるからでしか無い。ジャズのライブで声を上げることが出来る人間の殆どは自分自身がプレイヤーか経験者であろう。

キースの例はなんだかわからんが日本にある「瞑想という伝統」とやらを鑑賞中に発揮しなければならないのだろうか。言葉の捉え方にディスコミュニケーションを感じなくもない話だ。

とまれ、歌うための映画の企画が映画館という「場」を超えられなかったのは場に文脈を過度に感じてしまい、「空気を読んだ」結果に過ぎないと思っておる。こんな話は企画のほうがもうちょっと考えるべきで、30人位サクラに歌わされれば途端に大合唱になっただろうと思う。

僕は文化的民度云々を嘆くよりは、きちんと伝わっていない「場の伝統、文脈」をきちんと取り入れる、広めていく、という文化の提供側の努力をもっともっとしていくことが必要だと思っている。これは、そういう義務があるとか、負担をすべきとかそういう話のつもりはない。単に、面白いことを面白いようにやって面白いって言おうぜってだけの話であり、わかってない人にノブレスなんちゃら言うんじゃなくて、わかっている(はずの)人たちがまずはそれを担い、実践しようぜって話であり、そう思いながら微動だにしない客がいるジャズライブの中で僕らの一団は空気を読まず全力で楽しむのである。

引用元のエントリはいくつかの「場の伝統、文脈」を紹介してくれていて、とても興味深かった。願わくば、出来ない人への怨嗟の声を上げるのではなくて、文化を愛するものとしての啓蒙を行って欲しい。いくらノブレス・オブリージュなんて言っても無い袖は振れないのであり、持っているものがそれを行うしか無いのであるから。文化の伝統は必ずしもエリート層だけが担っているわけではないのであるから。