novtanの日常

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フィクションと嘘の境界線~世界はやさしい嘘で満ちていて

嘘すなわち悪、ということではもちろんなくてね。

そして、「いい話だから、僕は許す」という思考回路が出来上がってしまったら、おそらく、その「許容範囲」はどんどん広がっていって、「自分にとって都合の良いことは、どんな嘘でも信じる人間」になってしまいかねません。

 結局のところ、そういう「自己正当化の暴走」を食い止めるためには、「それが事実かどうか」を、ひとつの境界にするしか無いのだと思うのです。

【読書感想】江戸しぐさの正体 - 琥珀色の戯言

とはいえ、事実は小説よりも奇なりというところはあって、いい話の類型は大体事実にあったりしますよね。

僕は「感動そのものは無罪」だとは思っているんですよ。問題はその先にあって、そのいい話が結果として何につながるか。かの「一杯のかけそば」だってあの感動が社会問題を解決させたりはしなかったけれども、悪化もさせなかったと思うんですよね。ただし、フィクションを実話と偽って「著者が儲けた」ことはみなの怒りを呼び覚ましたわけですが。

かつて、こんなことを書きました。

人間性ってのは歴史を経るごとにどんどん内容が変わっているはずなんだけど、なんで現代では停滞しなければならないんだろう。僕らは科学的思考と言う新たなツールを手に入れたはずなのに。まだ過程なのかもしれないけれど。

http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20080107/p1

ここでは当時(色んな意味で)流行っていた水伝をきっかけに考えているんだけど、アレの問題は「非科学的思考の蔓延」であり、社会に害をなすと思っているので批判の対象にはなっているんですよ。

山田風太郎が歴史修正主義と呼ばれないのはもちろん明確にフィクショナルな文脈で書かれている小説であるからではあるけれども、それにかぎらず様々なフィクションの提示の結果として「(人間の限界を超えた能力を持つ)忍者は実在した」と一部外国人には信じられている程度には歴史は改変されているってことはあるよね。
いかにも事実然として書いている歴史小説が元になって過去の人物が形作られ、評価されたりもしている。もちろん、その裏で歴史学者たちの資料による発見もあったりはするけれども。

「江戸しぐさ」なるものがこれだけ問題になっているのは、明確なフィクションを陰謀論も交えたノンフィクション文脈で社会に影響を与えることを意図して流布しているという点にあるんじゃないかとは思うんですよね。ただ、id:fujiponさんが仰っているとおりで、「いま、子どもたちが目のあたりにしている「2014年の大人のマナー」が目も当てられないものだから、「江戸時代の日本人」に理想を投影するしか、ないんだよね……」という面は否定出来ない部分はあると思う。
ただ、その嘘があまりに稚拙であることに気づかない人が多いイライラみたいなものはあるし、そのイライラはまことしやかに嘘をつくことそのものではなくて、いい話だからと思考停止してしまう人々に向けられたものなのかもしれないって思うんだよね。

でも、僕達も嘘を元に他人を動かす、ということは狭い範囲では結構やっている。そのことを全て否定する必要もない。

事実であろうが、嘘であろうが、そこにくっついている「なんでこの話をするのか」という点について常に意識していることが大事なんじゃないかな。

僕たちは、過去についてのフィクションは結構受け入れてしまっているし、それを覆す発見があれば訂正する努力もしているよね。江戸しぐさなんていうのは歴史修正主義っていうにはバカバカしすぎる話なんだけど、一方で今の社会に誇りを持てないことの裏返しなのかもしれないね。変な懐古主義の蔓延の一環みたいなね。
でもこれだけフィクションとしてのいい話をいい話として共有できるのであれば、それを実話を装った嘘のちからを借りなくても実現できる素地はあるってことなんだと思うんだよなあ。

でも、この話は実際にはもっと違う話で、単に「いい話というコンテンツ」を消費しているだけなのかもしれない。別に「昔の日本は素晴らしい配慮をしてた」なんて事実があったとしても、今の人間には関係ないことだしむしろ恥ずかしく思うべきことなんだけど、何故か自分たちが素晴らしい、誇らしい存在であると感じてしまうような消費の仕方をしているのだとしたら、それは非常に寂しい話だよね。ある種の間違ったナショナリズムの高揚みたいなね。

明確なフィクションも曖昧な嘘も、それを利害関係で捉えると境界線なんかはなくて、それを受容させた結果意図している何かの方が問題なんでしょうね。