novtanの日常

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動物だけに悲惨さを感じるベジタリアンを滑稽だと思うことについて

原罪だなんだかんだという話はいわゆる宗教に近い話であって、僕個人としては人間は自分の快楽のために他の生命を犠牲にしているということに特段否定的な見解は持っていないし、罪深いとすら思っていないし、だからと言ってああこの牛豚鶏魚が殺されて食べられてしまうんだななんか可哀想だなという感情を持たないわけでもなく、でも美味しいしなと思ってしまう。

人間は大抵の物事に対していはこういう矛盾を抱えて生きていてその矛盾を解消しようと試みて全世界の平和を目指してみたり、悪の帝王になったりするんだと思っている。つまり、ほとんどの人々は矛盾を矛盾のまま受け入れて生きている。

世の中には色々な考え方がある。人の数だけ主張もあると言えるだろう。だが、こういう主張を見るたびに、自分は思うことがある。

なんで動物だけなんだろう、と。

植物だって生きている。人の言葉を話すことが出来ないのは動物も植物も同じである。なのに、動物は可哀想で植物はそうではないという理屈がわからない。

あるベジタリアンの滑稽さ。 - Yukibou's Hideout on Hatena

という話は、この話を理屈として捉えようとしているから起きている。僕も正直ベジタリアンとか馬鹿じゃねーのwwwと思ったこともあるし、一方で全くこのロジックである美味しんぼのもやしだって生きてるんだエピソードってだから命を大事にしましょうじゃなくてだから動物喰って良いんだっていう免罪的なロジックにしかなってないなと今になって思うわけですよ。実際のところ、肉を食わなくなった当の本人は至ってまじめに自分の中にある矛盾に向き合った結果、ロジカルではない結論を導き出しちゃったわけで、客観的に見ればそれは滑稽(というのは、その矛盾だけ解消したところで他にも沢山矛盾を抱えているはずだから)ではあるものの、それを「滑稽だな」ということにあんまり意味は無いだろうし、あえてこれを滑稽呼ばわりをする事自体が別の矛盾を解消することを試みているように見えて人を呪わば穴二つなんじゃないか。

結局、この手の話題の当事者は感情論しか提示できない。だから、「すべてのいのちを守るために私は肉を食べない。野菜は食べるけどね」とか言うと話がおかしくなってしまうのだ。自分で命を天秤にかけておきながら、それを無視して持論を展開するから胡散臭く思えてしまうのだ。

少なくとも、自分はベジタリアンよりもジロリアンのほうが友達になれそう。肉も魚も食べるし、野菜も大好き。しょうがないよ。だって、にんげんだもの。

だから、言うまでもなくこの話は感情論だし、感情論で問題があるのは他人にそれを押し付けるとき(あるいは他人に迷惑が掛かり過ぎる行動になっている時)だけなんじゃないのかな。胡散臭いも何も、野菜の命が奪われることに過剰に悲惨さを感じることが出来る人間なんてそうそういるもんじゃない(そもそも野菜だって生きているんだって話はほぼ肉食する人がその正当性をアピールする際にしか使われないロジックだろうし、それが肉を食いたいという感情から出ているものじゃないなんて誰が証明できると言うんだろうか)。

「にんげんだもの」も一つの選択であって、その立場に立たない人からしたら滑稽だよね。多分。