novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

オリジナリティの話を日常性に還元するとジャンルが変わる

ブコメにも書いたんだけど、もう一度。

  • 丼飯業界がどこの店も吉野家のパクリばっかり。どうせ新しいお店にいくならもっと新しい物を食べてみたいなあ…
  • 吉野家の牛丼はもはや日常化した。吉野家美味いんだからいいじゃん吉野家最高だぜ!入ってみて吉野家並の新店なら満足だぜ!

の断絶みたいな?

ジャンルフィクションはそういう「志」を持たない作家に、ロケットや、宇宙人や、密室や、吸血鬼や、エルフを提供する。
これらの素材を使いこなせば、比較的凡庸な作家でもちゃんといい作品を作れるというわけです。
「なろう」はジャンルフィクションが持つそういう特性を極限まで特化した「場」であるといえます。
個々の作品ではなく、その「場」そのものを楽しむという読者は多いことでしょう。

オリジナリティ・イズ・デッド。オタク第一世代による現代ファンタジー批判を考察する。:いまどきエンタメ解剖教室:海燕のチャンネル(海燕) - ニコニコチャンネル:エンタメ

なんというか、こういうレベル感の話って正しく「消費」している立場の話ではあるよね。僕らがいくら吉野家ばかり喰ってるのは没個性だって言ってもそこに需要があるし供給もある。日常である。と。

言ってみれば、エンタメとは偉大なオリジナルの単なる変奏曲である、と。違うな。単なる別アレンジである、かな。おいおいそんな終わり方するのかよ的な話だったり無意味に絢爛豪華だったりして結局のところね。

いずれにしても、エンターテイメントが日常化したことによって起きているという話かというと、エンタメの歴史上そんなことは今急に始まったものではないのでもう少し別の問題として捉えるべきではないかと思う。すなわち、エンタメの供給過多である。あるいは、「異世界ファンタジーの日常化」である。どちらも結局は同じことなんだけど、つまり受容する人間と供給するバリエーションがあまりにも増えすぎると、もはやジャンル内の網羅性に意味がなくなる(9割は変種にすぎないから)ことや、受容する側も断片的に消費する(つまり「お気に入り」を中心に消費する)ことで外部性のある視点を持った人(つまり批評者)にしかそのオリジナリティのなさを指摘する人はいなくなるというようなもの。
これは社会派ミステリなどでも通った道だし、ポップスやテレビ番組が今なお直面している「粗製濫造」という問題であると僕は捉えている。よくある話として、この手の批判について受容している側は「楽しいからいいじゃん」という態度を取ることが多い。確かに、エンタメ消費という世界において、オリジナリティがないという批判は無意味である。ではエンタメ消費ジャンルに対する批判が無意味なのかというとそうではない。ここではエンタメ消費状態というのはジャンルの現状のステータスであり、ジャンルが持つ本質的な文化的な意味とは切り離して考えるべきもので、そこで生産されている作品については各々が文化的価値という観点からの批判を受ける。で、単体としての批判はもはや意味のあるレベルではないというのが粗製濫造状態の文化の特徴だけれども、総体的に見て正当な批評の対象になるのに値する作品があまりに少ないという現実があるのであれば、そのジャンルの現状について否定的な観点からの批判をすることは十分に正当で意味のあることなのではなかろうか。