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novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

インターネットの公共性と正しさについて

もう結構うんざりしているんだけど、例えばTwitterで仲間内だけで通じる文脈でヘイトに近い言葉を使っているのはまあ大抵の場合アホな所業と言って良いんだけど、そういうアホな所業をいちいち捕まえて精神的に追い込むような言葉で糾弾している(実際に相手が追い込まれるかどうかは別として)側も結構なアレだと思うし、とにかくその手のアレはヘイト言いたいだけちゃうんかという印象を周囲に振りまいているだけでも害悪というか、その属性に大しての逆印象操作というかなんというか、ましてや糾弾している本人がその属性に属していないなんていうのは悲劇でしかないんだけどさあ。

悪人には人権がない!ってのを地で行くような思想を振りまいているような人はその正義の側に立つことによる非対称性に思いを馳せるようなことはないのだろうか、と思う。で、自らを顧みると、ニセ科学に対する糾弾なんてのはまさにその様相を呈しているような気もするし、まあそれならそれで良いかと思ったりもするんだけど、これ何度も言っているけど重要なのは、自覚的に「他人を捻じ曲げよう」としているか否かってところなんだよね。僕は現代科学の徒として、そこにそびえ立っているものを守りたいと思っている。それは決して「こちらの側が真実」だからということを確信しているからではなく、ある種の政治的判断と言って良いのではないかと思う。

正しさについて公共の場で語るってのは本当はそうであってはいけないと思うし、外野に受け入れられる「人がいる」ことにほっとするのではわざわざ公共の場で正しさを語る意味は全く無いと思う。だってさ、そう思っている人はだれかを吊るし上げるようなことをしなくてもそう思っていたわけなんだから。だから、ものすごいまじめに考えたら、そもそも公共の場で語るべき話(いわゆる大説なのかな)は特定個人の話ではなく、人間としての有り様とか、社会としての有り様とかそういう話だけであるべきだし、僕にはとてもそんなレベルの話ばかり出来る自信がないからそういう縛りをくれるつもりはないんだけど。

「俺は正しいお前は吊るす」という行為を「社会のために」やっていると思っている人がいたらそれはちょっと怖い(学生運動華やかし頃、それは人を殺すことにつながっていたよね)。

公共の場でアレなことをしている個人を吊るしあげること自体は僕としては公共の場でやっちゃってるからなー、しょうがないかなーって思うし、自分でも吊るしあげるわけなのでそれが悪いとは思わないんだけど、それ自体が目的になっちゃってたら本末転倒だし、そもそも正義を果たしているのではなく、自分の考えを相手に押し付けようとしているということは自覚するべきだし、押し付けた結果世の中が良くなるってことを少しでも信じているからやっているってのが大事なんだと思うし、なんにせよ、その行動は他人を少なからず傷つける行為であるということは間違いないわけで、悪人に人権がないという考えなのでなければそのことについてちょっとでも考えながら、つまり、自分のカルマを溜めながら、行うべきなんじゃないかとは思う。それができて初めて正義の側に立った行動だという事ができるだろうし、別の正義と対立して死ぬ。正義を代弁するなんてろくなもんじゃない。

結局さ、世の中を変えるためには「俺はこう思う。できればお前も賛同してくれ」を地道に続けることでしかないんだよな。