読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

ブログで社会の問題に取り組む時に考えること

もう直接は言及しないけど。

「見かけたら攻撃する」でも「適当に探しだして攻撃する」でもどちらでもいいんだけど、別に何がしか活動している人のその活動目的が正当なのであればそのやり方について文句をつけるつもりはあんまりないし、それが上手く行かないだろうなあと思うときは指摘したりするけど、動いている人間と動いていない人間の差は歴然としているので受け入れられなかったらはあそうですかとしか言いようが無いとは思っているわけです。

とはいえ、例えば「お前は差別への加担者だ」という糾弾を行って、つまり、大上段の理屈を振りかざしただけで物事が解決することはほぼないと断言できるし、それで理解してくれる人の大半はもとよりそのような考え方に親和性があったに過ぎないと思うんだよね。べき論で言うと差別を解決するのは加害者側の責務であるという話は間違いないんだけど、問題はその考えに賛同してくれる人は例え差別的行為を行ったとしても指摘すれば気づいてくれる一方で、賛同してくれない人というのはそもそもそれが加害者側の責務であるどころか差別であることにすら気づいてないことすらある、あるいはそれは差別ではないと定義しているってことなんじゃないのかね。
だからさ、当事者に対して殴りかかる(比喩ですよ)事自体を悪いとは言わないけど、「わからん理屈をいう人」の言うことをちゃんと聞く人は殆どいないってことを意識しないのであればそれは単に目先の被差別者の鬱憤を晴らすだけに過ぎないし、別にそれが大事ではないとは言わないけど。
「XX差別に理解を示す人」がマジョリティにならないと差別は解消しないわけじゃないですか。いやね、別に公に差別をするな、というところまでは解消しますよ。でもそれは別に人々の差別心をなくしたわけではなく、差別することが罪と罰に値するという宣言が社会になされただけでしかない。だけでしかないとか言ったけど実際のところそれが一番大事ではあるんだけどね。

だから、差別心を持つ人の差別心そのものを糾弾するということはある意味ではグロテスクな感じはしてしまう。差別をしないというのは現状社会のお約束だし、であるならば良識ある人は指摘を飲み込むくらいは普通にしてくれるはずだし、そうじゃない人が度を超えたら罰が待っている。ただ、差別は良くないと思っていても何が差別か気づかなかったり、気づいても納得出来ない多くの人達がカジュアルに差別発言をすることは(差別排除の本場である欧米であっても)普通にあるし、なくなるわけがないとすら思う。一方で、じゃあ差別だという指摘を飲み込んでくれない(悪い言い方をするとバカな)人たちをバカだと言ったりすることはどういう行為なのか。性善説を取れば、彼らは単に知らないだけだ。何故知らないのか。その来歴は。差別心は自分のコントロールできる意志から来ているのか。等々。仮にそういう点に原因があるのであれば、それは例えば来歴による差別ではないのか(普通はそうは言わないと思うが)。実害を得ていない?もし仮に彼らがそれを理解しないことによって扱いに差をつけられる世界が急にやってきたらそこで行われる扱いの差(すなわち差別)は彼らの責任だからしょうがないというのだろうか。差別に対する問題の現実的な運動は多くの場合、(不当に与えられない)権利の回復運動に帰結しがちだ。だから、いわゆるマイノリティ差別、特に心の問題についての差別は容易には解消しづらい。

そういう状況であるから、殴りあうことを選択してしまうのであろうか。僕自身はそこで残るのは有事における恐怖の記憶でしかないと思うけどね。

そういう気持ちになるのは、「差別を解消せよ!」と要求している人の実際のゴールがわからないからかもしれない。いやね、もし内心も含めて変えるべき!!もうこれ回避不能な闘争なわけよ。相手の思想を変えるというのは古来からそういったものだったはずだ。で、そういう行動は端で見ていると理解不能に近く、怖い。そうじゃなくてお前がオレの仲間を差別したらオレがお前を殴る、だったらまあわかるわけよ。殴られるのは嫌だからそういった行動を回避する、という行動変更は容易に可能だからね。

でもマンガに書かれて揶揄されるというのはやっぱりグロテスクだし、裏返しの行動にも思えるわけだし、ウェブで怒るにしても主語を大きくして怒られたら何をすればそいつ満足するかわかんねーから無視ねみたいにもなったりするわけじゃない。

さてね、じゃあ対話ってのは誰と誰がすべきか。これはまたちょっとむずかしい話なんだけど、基本的に対話を必要としているのはカジュアルに差別を加担している側であって、ようは自分で「あれ、違うと思ってたけど違わねーな」って気づくしかないわけですよ。そのための場が実はあんまりないのが問題で、それに関しては教育とか、番組とか、イベントとか、なんでもいいんだけど社会としてやらなきゃならんわけです。こういった問題に対してトリガーを引いてくれる人たちは本当にありがたいと思う。普通、問題意識があっても行動に至る人は少ないし、僕自身もそういう人間だからね。自分の目の前の問題に対処することしか普段はしないし。

目の前の問題に対処するってこと自体はだからそういった問題とは切り離して考えて良くて、ただ、ウェブでこうやって何かを主張するってことは大抵の場合、目の前の問題だけじゃない問題に言及することになるわけなので、そこに書かれているやりたいことと実際にやっていることにギャップがあるのではないかと思われるとそこについてはたいてい指摘が入るものだとは思っています。やり方は一つではないので、別に指摘が入ったからといってそれに乗っかる必要はないんだけど、やり方は一つではないので指摘に対してそれは間違っているという必要もないよね。逆にそうじゃない、答えは一つなんだって思っているのであれば、それは世の中に考え方を受け入れてもらおうと言うものの責任として根気良い説明が必要だとは思うんだけど。もちろん、(いろんな経緯に照らすと)間違った考え方というのはあるし、だから社会というものは難しいんだけどさ。

深刻な話ほど、間違えながら本質を見つけ出すという行為が必要なんだと思うし、そういう間違いに対して厳しくも寛容な世界というのが社会の規範を作っていくんだと思うし、実のところ、その規範が問題を作り出す元凶であることも普通にあるわけで、社会からXXを撲滅するというのは無理なんじゃないの、と思ってたりもすることが僕のスタンスの正体なのかもしれないけどね。