novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

当時中高生だった僕らのオウム真理教の思い出

練馬中野杉並区民(当時のいわゆる第三学区というやつ)にとってのオウム真理教の思い出といえばやっぱり選挙に尽きるのだと思う。
「ショーコーショーコーショコショコショーコー」これは衝撃的だった。西武新宿線の駅前におけるその選挙活動が中学生の心に残した衝撃は大きい。真面目なnovtan少年が思ったのは「選挙って、こんなんでも出て良いんだ」ということ。もっとも後年になって羽柴なんちゃらとかマックなんちゃらとか又吉なんちゃらを知るに及んで世の中そんなものか、と思い直したのではある。

いずれにしても、マイトレーヤ(これは上祐)のようなホーリーネームが耳新しく、まるでマンガの登場人物のようだった。僕らは彼らが現世を救うなんてことはかけらも感じていなかった。ただただ、あのアホくさい選挙活動を世の中のハプニングとして受け止めていた。彼らは十分に胡散臭かったし、いわゆる「超能力者」的なものとしてテレビに出ている一連の人たちの中で群を抜いて「ニセモノっぽい」存在だった。だから、彼らがそんなに大それたことをやるなんて思っていた人は殆どいなかったのではないか。

オウム真理教の建物はそのへんに点在していたけれども、通りかかって何があるわけでもなく、あーこれがオウムか、というのは幸福の科学と変わらんし、創価学会や天理教ほど数があるものでもなかった。

さて、ときはDOS/Vパソコン勃興期、と言っても今の若い人にはわからないと思うけれども、当時のパソコンとといえば8bitのホビーパソコンの激戦からビジネスでの実用性もある16bitに完全にシフトし始めた時代で、日本ではPC-9801の一人勝ち(と言ってもNECだけでなくエプソンのPC-286という互換機も売れていた)で、他の16bit機といえばアーケードゲームのCPUとして68000積んでたのが多かったせいで完全移植可能なホビーパソコンとしての地位を得てしまったX68000や、時代を先取りしすぎたFM-TOWNS(ハビタットとか、ニフティをやっていた富士通とはいえ、あの時期よく作ったよな)くらいしか敵はいなかったわけだが、一方でMS-DOSをメインOSとしたパソコンはそもそも世界的にはIBM-PCとその互換機が中心で日本はガラパゴス。そもそも98の解像度が640*400のなかで、IBM-PC(とその互換機、いわゆるPC/AT)は640*480の解像度をもっていたから日本でも覇権を握れると思いきや、当時日本語を表示するには日本語フォントセットをROMとして搭載していないととても表示できなかったので黒船は来襲しなかった。んだけど、CPUが強まったこの時代、DOS/Vというソフトウェアで日本語表示しちまうぜという力技OSが作られたおかげでついに黒船来襲したのであった。

高校に入ってパソコン少年と化したnovtan少年、足繁くアキバに通うこの時代、DOS/Vパソコンはまだマニアのもので、98全盛には変わりなかったんだけど、TSUKUMOのあたりを通るといつも怪しい格好をして声を完全に枯らせた「マハーポーシャ」の宣伝部隊がいた。彼らはとても必死だったんだろうけど、どうにも危うい感じしかしなくて近寄りがたい。結局チラシを貰うこともなかった。彼らが「オウムらしい」というのはインターネットが無かったこの時代においても信憑性の高い噂として語られていたし、すでに坂本弁護士殺害事件がオウムの仕業ではないかという説が有力だったこともあって、中高生がオウムに近づくということはなかったように思う。余談だが、その3年ほどあと、大学の某研究室に入ったnovtanを待っていたのはマハーポーシャ製のAT互換機であった。おい。
カレー屋、某大学のサバイバルサークル、ヨガサークル、カレーサークルなど彼らが世に紛れる姿はいろいろあったけれども、僕らは中高生であったおかげで好奇心だけでそこに踏み込む、ということはなかった。

地下鉄サリン事件の日、高校は春休み、浪人していた僕は大学への入学金を収めに行くその日。あとになって、部活に行く後輩がその日に限って寝坊したおかげで問題の電車に乗らなかった、ということを聞いた。先日20年ぶりくらいにあったが元気そうで何よりだった。凄惨ではあったが、テレビの向こうで起きている出来事はなんだか非現実的で。犯人がオウム真理教と知れたのは起きて間もなくのことだったけれども、「おかしな集団はおかしなことをやる」ということしか思い浮かばなかった。