novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

人間であるということと多様性について

ここ最近のいろいろなことを元に色々考えているんだけど、そういったことを考えるときの根底のところにはやっぱり「人間とはどうあるべきか」という問いがあると思っている。この問に正しい答えはないし、仮にあったとしてもっそれは時代やおかれている状況によって変容するものだし、であるならば、これを問い続けて生きることだけが永遠にたどり着けない正解に近づく方法である、という不毛な話ではある。

だから、これを問うことについて諦めてしまったり、最初から歯牙にもかけない人がいるというのは理解はできる。でもその結果はある種の正義の押しつけあいであり、戦争や収奪であるとも思う。

このあたりの話はファンタジーな様式におきかえると、「各々の正義を持った神々と、思うがままに生きることだけが教義の神との戦い」ではあり、往々にして後者は悪者扱いでありつつ、神ではなく人間そのものが悪なのだ、というように説かれる。

人、という存在が(少なくとも地球上において)特異な理由は自らの欲望に箍をはめることができるという点に尽きると思う。稀によくある欲望の箍が外れた人間は断罪の対象になるけれども、箍をはめたり外したりを自在に行う人間が世の中の模範のような顔をして平然と暮らしていたりもする。本質的には人間の箍というものはゆるく出来ていて、古来それは宗教にコントロールされていることが多かったと思うんだけど、その対極に、あるいは両極に、哲学というものがあり、倫理というものが規定され、補助的または主体的な役割を担っている。でも、この多様性の時代においては、そもそも箍の存在自体を憎悪するようなことすらも人間性の発露と認められるような風潮があるように思える。

人が人であることを許されない、ということは人権の侵害である。では、人が人であることを望まない場合はどう考えればよいのか。多様性というのは人が人でなくてもよいとするのだろうか。

別の視点。自分が自分であるために必要なものが、社会のルールから逸脱していた場合に、それを奪われることは人権の侵害なのだろうか。人は健康に働き、家族を愛し、天寿を全うすることが正解なのだろうか。自分のやりたいことは別の誰かの犠牲を伴うのだろうか。それとも自分自身を犠牲にするのだろうか。それで得られるものがプライスレスなのだとしたら、価格に換算することしか出来ない仕事をやることは人間として幸せなのだろうか。

一方で。やりがいのない仕事をやって仕事の後の一杯の酒で生きる実感を感じることは社会の損失なのだろうか。

目的を持たない人生に意味はあるのだろうか。いや、ないのだろうか。

一定の価値観の元、徒党を組んでいる勢力に対して、完全に多様化した人間の群れは無力であり、正義に対抗するためには正義を振りかざすしかないという(例えばリベラルはリベラルであることの一点において一致団結すべきという)物事の道理さえその正しさ自身が押し流してしまうというのが今の世の中だとしたら、旧態然とした倫理を持つ勢力にとっては歓迎すべき状況でしかないよね。