novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

過酷すぎる自由な社会において

※ほぼポエムです
子供が学校に行きたくなくなるのはまあまあよくある話だし、GW明けたら会社に行きたくなるのもまあまあよくある話ではあるよね。

よく「自由」の対極に位置するのは「抑圧」であるという前提で話をされることがある。自由という言葉が広くて曖昧だからということもあるんだけど、僕はちょっと違うと思っている。「抑圧」というものがそもそも人間に対してマイナスの要素か、というと実は全然そんなことはない。

そもそもディストピアSFにおいて、「俺は自由だ!」は死亡フラグである(と意味のわからない供述を繰り返しており…

いやまあ、結局の所何でも良いんだけど、とにかく制約も抑圧もない「自由」というのは自分を強く律することができない人にとっては単なる堕落の入り口に過ぎないことのほうが多いわけですよ。当然だけど、子供が自分を強く律することはできない。義務教育やらなんやらには現代的ないくつもの問題があるとは思うけど、そこから自由になることが「得」になる人生って実はあんまりないかもしれない。

抑圧にも色んな種類があって、当たり前と当たり前じゃないことのせめぎあい的なものになったときに強ストレスを生んだりもする。なんで周りは平気でいるのに自分だけこんなに苦しいんだろうか、みたいなものも。そういったものを受容するのも反発するのも人生であり選択であるとは思う。社会的な抑圧、というのは選択を許さないものである一方で、それが純粋に悪意であることはほぼない。

「ほにゃららのために~」というフレーズは幸せが伴えば愛、伴わなければパワハラである。両者の区別は外形的には難しいこともある。自分で自分を律することが難しい人が他者にそれを依存する、ということは果たして不幸なことなんだろうか。ステレオタイプな生き方をあえて選択することは社会に逆行した古い人間なんだろうか。

僕自身、あまり型にハマる人間でないことで苦労はしてきていると思う。有形無形の抑圧を飲み込んで来たし、反発だってしてきた。正しく有りたいと思う一方で、自分の弱さに起因した失敗もたくさんしてきたよ。

先人の持ついろんな力をうまく利用してこれまで生きてきたと思っている。常識であるとか、モラルであるとか、うまく生きるための術であるとか。サービス残業は嫌だけど(実際したことないけど)、残業は必要ならするし、なんなら仕事楽しいじゃん。公私混同はしたくないけど、自分のためなら勉強は休みにだってするよ。上司の言うことには基本従うし、自分の良心に照らして明らかにおかしいことは絶対にしないけど。疲れてたら優先座席で爆睡することだってあるけど妊婦さんが目の前に立っていることに気づいたら席は譲るよ。

全てにおいて自由である必要は、生きるために必要ではないと思う。なんなら、もっと楽に生きるためのルールを与えてほしいくらいだ。子供のときは嫌かもしれないけど、大人になったら明確なルールに従って生きたほうが楽ができるんだよ。

でも、自分がどれだけ自由でいれるかというのは、頑張って自由で有り続ける努力をするしかない。自由に生きるってのは大変で、辛いこともたくさんあって、外形的(例えば、お金とか)に必ずしも報われるものではない。清貧という言葉がなぜ存在するのかってわかるよね。うまいところを泳いでいろいろ両立させることだってうまく泳げれば可能だよ。うまく泳ぐために何をしなければならないのかわかっているのであればね。往々にして職業アパート経営のリベラリストがいるのはそういうことだ。

押し付けられる規律と同じくらい、押し付けられる自由はやっかいなものだよ。人間としてバランスよくあるのは結構難しい。

常連優遇というお店のスタンスについて

嫌ならチェーン店いけよ、と思うんですよね。

というのは極端な話かもしれないけど、常連を優遇するという行為について、なぜか「客は平等に扱うべき」と強く主張しちゃう人が結構いますよね。でもこれはお店のスタンスに完全に任せれば良いと思うんですよ。立地とか、キャパとか、人間関係とか、特に個人経営のお店ってのは事情ってものがあるでしょ。常連重視すべきでない立ち位置のお店が常連重視しすぎて問題が起きて潰れるならそれもまた人生なわけですよ。極論だと、地元の反社に近い人達の唯一の憩いの場である寂れた食堂のカレーが実は美味いみたいな感じでBuzzったら何が起きるかってことですよ。口コミが口コミ以上のシステムを持つのって罪よね。

すべてのお店が自分たちのキャパ以上に繁盛させたいと思っているわけでもないだろうし、ネットで記事を見た程度でわざわざやってきて居心地悪いぞフザケンナってやって来る方の感じも悪いよね。大半の店は常連と一見さんで大きく待遇を分けるなんてことはないだろうけど、多少差がでるようなことにすら目くじら立てる人は常連になれないタイプの客よね。

不当な客差別や過度に乱暴な態度を許すべきって話じゃないからね。

「次」が指す日本語の問題

togetter.com

およそこの問題は仮にDを選んだ人もよくよく聞けば「あ、そうだよねやっぱり」と思う話なんじゃないかと思っていて、新しい用法が出来たとか意味を取り違えているかとかではなく、うっかり問題誤認、だとは思うんですよ。

というのも、「次」「高い」というワードだけでうっかり「カウントアップしていく数字の次」という風に捉えちゃったと思うんですよ。

日本語の「次」、という言葉は何かを評価した結果、~に次ぐもの(次点)という意味で使うことが多いと思いますが、集団があり、向きが発生した場合は必ずしも評価を表すのではなく、並んでいるものの順序を表すことになりますよね。これも厳密に言うとまだ原義から外れてはいないんですが、例えば電車に例えると、(次の電車問題ってのもありましたが)乗ってない人が電車を待っている状態の次の電車というのは「後ろ」のことを指しますし、電車に乗っている人が「次の駅」というと時制的には未来(後ろ)を指す一方で、方向としては前を指す場合がありますよね。プログラムで言うところのリスト構造の「next()」で言えば、リストの次の項目(後ろ)の項目を指す一方で、リスト自体は照準にソートされていたり降順にソートされていたり、ソートされていなかったりするので、プログラムの制御上の「次」と、処理要件としての「次」は必ずしも評価とは合致しないものになりますよね。

言い換えると、ソート順と順列の向きについての誤認、というのが次に高い人問題の本質なのではないかと思います。意味が違ったのではなく。設問が順列づくりに誘導的、というのも要素として大きいんじゃないかと思います。だから、今回Dを選んだ人が日常的に次の意味を転倒して使っているとはあまり思えないし、理由を述べているのを読んでも順列の意識が高いですよね。その事自体はそんなに変な感覚ではないと思っています。