novtanの日常

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旭日旗とは一体

わりと普遍的な意匠が何かを象徴してしまう、というのはまあまああることで、ナチスは鉤十字で良かったが単なる十字だったらスイスとか北欧の国旗は全滅していた…のだろうか。しかし、卍が鉤十字を想起させる、というイチャモンはそこそこ発生する。
我々が一般的に目にする旭日旗の意匠ってのはまあ太陽から光がぱーっと出てる表現なのであるから、そこそこ普遍的な意匠であると言える。朝日新聞然り、大漁旗然り、日本の日の丸が太陽の(ものすごく単純化した)意匠だ、というのも広く知られている結果、旭日旗が表現しようとしている光の表現は旭日旗とは違う形で日本の強さを示す表現として諸外国でも使われることがあるよね(スポーツとか、企業とか)。ヒノマルライジングというのはそれなりに日本を象徴している。

一方で、この表現は(白と赤の二色のみ使う、という点を除けば)世界中で使われている意匠でもある。

とはいえ、旭日旗そのものは近隣の国家に対して、いわゆる軍旗としての悪印象を与えている旗である、という点は事実であるし、であるならば何よりもスポーツマンシップを重んじる場において、わざわざそれを使わなければならない理由はない(何しろ、ちゃんとした国旗が別にあるわけで)。一方で、その意匠そのものにはそういった文脈をわざわざ付与しない限りはなんの問題もないし、禁止される言われもない。サッカースタジアムの問題はサポーターの民度の問題であり、わざわざ持ち込むやつは一体何がしたいんだ(ヘイトなら他所でやれ)と思うんだけどね。

そのうち扇形の意匠全部旭日旗に類似しているとか言い出す気がするけど、まあちょっと何言ってるんだかわかりませんね、ということで一つよろしく。

被害者の氏名公表にまつわるマスコミの態度について

重大事件において、被害者の氏名を公表することが社会的に意義を持つ、という考え方そのものについては、「そういう側面もあるだろう」というレベルでは合意できると思っている。ただ、「これが社会的意義である」という内容が各人でまちまちすぎて、話が錯綜している、というのが現状なんだろうな。

知る権利と報道の自由という観点や、権力の監視という観点において、実名報道が一定の役割を持っていることは否定できない一方で、社会的規範と個人の権利のバランスというものは社会のあり方の変容とともに揺れ動くものだ。死者にプライバシーはない、というのは非常に卑怯な物言いだと思っているのだが、死者のプライバシーは時として残された生者のプライバシーに直結しており、間接的にプライバシーを侵害している、ということが多々あるのだ。

実名報道の本質的な問題はもっと低いレベルにあると思っている。実名報道が必要だ、というマスコミそのものの低レベルなやり口、と言っても良い。つまり、建前である「社会的意義」とは程遠い、事件に巻き込まれなかったらニュースバリューなど無いであろう私人の過去や将来(の夢)を根掘り葉掘りし、時には捏造(というのが言い過ぎであれば、勝手な推察を)し、物語に仕立て上げて売り物にする、ということだ。美談であればまだマシで、被害者をセカンドレイプするような報道もそれなりに見られるよな。繰り返しになるけど、その私人の生活は、被害者になることがなければ明かされることはなかった。であるならば、被害者になったからと言って暴き立て報道することにどう社会的意義があるというのか。

このような事件が二度と起きてはならない、というような問題提起は必要だし、そのためにストーリーが必要だ、というのはもちろん理解可能なポイントだ。ではそのストーリーはどういうものであるべきなのか。マスコミがいつも逸脱しているのはそこだ。嫌がる遺族を追いかけ回して生前の姿を明らかにする、という方法が果たして社会的意義のもとで許される行為なのか。
京アニ事件や相模原の事件のように、被害者がたくさんいる場合に、公表を嫌がる遺族と求める遺族が両方いるというパターンはたくさんあるだろう。全員のプロフィールが明らかにならないと事件の性質が変わるとでも言うのだろうか。もし、そうでなくては報道ができない、というのであれば客観的に見てマスコミには物事を訴える能力が大してないという告白にしか思えない。

今回の問題で問われているのは、実名報道に社会的意義があるかどうか、ではない。社会的意義があることは明確ではあるし、それは一定の条件下における適切な運用によって実現されるべき、ということに過ぎない。いち早く被害者の名前を公表する、ということそのものに本当に社会的意義があるのか?これは例えば関係者以外にも広く安否の情報を伝えなければならない(乗客が管理されてないであろう、電車での大事故等)ような場合は該当するだろうけれども、被害者が確定的に明らかであり、関係者に容易に伝達可能な事件において、真っ先に求められることではないだろう。なぜなのかを邪推するとマスコミな「まだ落ち着いていない遺族のコメント」を元に世の中を煽ろうと思っているのではとすら考えてしまう。「今このタイミング(当時)」で実名でなければならない理由なんてそのくらいしかないのではないか。「センセーショナルであること」が社会的意義に寄与するのか?マスコミがなにかのプロパガンダ機関であることを自認しているのでなければそんなものは必要ないよね。

何より今回の話が悪辣であるのは遺族が公表を拒んでいる、ということを自ら記載までしているのに警察が公表したからということをトリガーに自らの意思で「報道」を行った挙げ句、その理由について「実名報道が必要だ、という専門家のコメント」などを根拠にしていることだ。なぜ「遺族感情を無視してまでこのタイミングで実名報道をしたのか」という問題について、マスコミ自身が明確にケースバイケースの社会的意義を提示できていないのだよ。報道したいからしました、としか思えないのに。

ここへ来て実名報道についての疑問の声がたくさんあがっているのはこのようなマスコミのこれまでの実績も含めた姿勢の問題が大きい。マスコミは全くの被害者であってもそのプライバシーを暴かずにはおかない、という印象を与えてしまっている(そしてそれはだいたい事実だ)。社会的意義という言葉でセットで感動ポルノを提供し続けるのであれば、セットにされた社会的意義が存在価値を失っていってしまうということにもっと敏感になるべきだし、他のいろいろな問題も含め、マスコミ自身の緩やかな自殺の一つである、というふうに感じている。

そんなことなら最初から社会的意義などという言葉を使わずに「読者が求めているから」と言って堕ちていくべきなんだろうな。大手の新聞社や報道番組が夕刊タブロイド紙のような、報道を言い訳にスキャンダラスな記事を書くという行為を続ける限り、マスコミに未来はないよ。

殺人事件の犠牲者のプロフィールを全員言える記者だけが「現実感のために実名が必要」と言いなさい

sirabee.com

何が「名前というのは重要な記事の要素」だよ。何が「名前が出せないのは、その人自体のこれまでの人生を否定してしまうことになる」だよ。お前が思うより人の人生は周囲の人の記憶に残っているんだよ。