novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

これから道徳のお時間です

例えば、仕事より家族を大事にすべきだよね、という言葉一つとっても、いろんな「なぜ?」があると思う。家族で食卓を囲むべきだよね、と言い換えると、もっと考えることがクリアになるよね。なるほど、9時5時で土日祝完全に休み以外の仕事は家族を尊重していないのか。そんな訳はないよな。家族の有り様は色々あるし、自分の価値観を大事にして行きていくことも大事だよね。家族がその生き様を認めてくれるのであれば、仕事に人生を尽くすのも悪くない。家族が犠牲?いやいや、その姿をみて成長していくのも家族のあり方だよね。

何が正しいのか、決めるのが容易ではないことはたくさんある。生き方なんてのはそれの最たるものだろう。だけど、個人の幸福にフォーカスしすぎると社会に対しての向き合い方は変わってしまう。だから、社会における生き方像みたいなものはある程度は限られてきてしまう。稀代の犯罪者を目指す、なんてのは少なくとも社会に対して背を向ける覚悟なしには決断し得ないものだろう。

なので、社会を成立させるためにはある程度の幅で(これ大事ね)、価値観を共有することが必要だし、それを機能させる装置が宗教だったり、道徳だったりするよね。

ただ、震災のときに節目があったんだと思うけど、道徳みたいなものが何故か「人間の生き方を縛るネガティブなもの」として取り扱われることが増えたように思う。自己犠牲の精神などが必ずしも良いものと思わないし、それを押し付けられることは犯罪だと思うけれども、一方でそういったことを自分の規範とし、生き方や死に方を考える人がいる事自体は良いはずなんだよ。でも、それを良しとしない人が何故か他人の生き方に口を挟むんだよなあ。

としまえんがなくなるのが寂しくて行かなかった

なんだったら徒歩で行ける距離にあるとしまえん。月一度は入り口の前を通過するくらいは近くにあったとしまえん。でも最後に園内に行ったのは何年前のことやら。

閉園する、というのは数年前から噂があったものの、いざ閉園するってなったら早かったよね。まあ、時期の決断はコロナ影響なんだろうけど。

ともあれ、僕にとってのとしまえんというのは小学生の頃の遊び場であり、おとなになってからは数回くらいしか行ったことがない。芋の子洗いの昭和のプール。近所の商店街経由で木馬の会フリーパスで平日遊び倒す(学校が休みの日ね)。西武線の向こう側の友達の家にはプールのタダ券(花火がうるさいので配られる)。新聞を乗り換えるたびにタダ券が貰えるので、僕らのうちの周囲は定期的に新聞が変わる家が多数あったんじゃないかな。花火は家から見える。何度か中で花火をみたけれども、外からと中からでは趣はぜんぜん違うものだよね。毎週の花火がなくなってから久しくなって、花火が当たり前でなくなってしまった時点で、既に僕らはとしまえんを喪失していたんだろう。

それでも、としまえんについて語ることはたくさんある。

企業が運動会をしたりする貸しグラウンドが裏手の方にあって、そっちからの入園の制御はザルなので、地元民は「としまえんに入る」だけであれば特にチケットなんかいらないって認識だったと思う。

みんな、ミステリーゾーンとエルドラドのことばっかり言及しているけど、どっちかというと不気味だったのはアフリカ館だよね。もっとも、これは前世紀にはなくなった(今のトイザらスのあたりだ)から、生粋のとしまえんっ子しか記憶に残っていないのかもしれない。フライングパイレーツよりパイレーツの方がちっさいけど怖い。コークスクリューにはなかなか乗れるようにならなかったし、多分コストの問題で平日の空いている日は稼働していないこともあったのでそれほど乗れなかった。だから乗れるときはコークスクリューばっかり乗ってたよね。乗れないときはサイクロンだ。ミラーハウスで頭ぶつけたよね。フライングカーペットの変なGは他に比べるものがない。

なんだったら、乗り物に乗るのはオプションなんだよね。妙に古いマシンがある園内のゲームセンター。縁日のゲームコーナーみたいな射的とか輪投げとか。園内を無目的にほっつき歩くのも地元民の特権だよね。

だから、みんなが名残惜しむ、にぎやかなとしまえんの終焉を同じように楽しむ気にはなれない。日常の喪失、というほど僕の人生の日常を占めていたわけでもないけれども、としまえんは僕にとってはハレのものではなかったし、ハレがましく名残を惜しむのは、なんかちょっと違うなあと思ってしまったのだ。

恥という概念がもう少し社会的に重要であるべきだと思う

みんなは覚えているだろうか。伝説の「鳩山対鳩山」という動画を。

ネット10年選手なら絶対覚えてるよね。

ぶっちゃけ、今、ガースーが直面しているのはアレであるわけなんだけど、不思議なことにそういう方向に行かない。いや、不思議でもなくて、令和のこの世の中であれをやったら流石にモラルが問われるだろうね。でも、そういう揶揄に対しては妙に厳しいのに、その理由である言説の一貫性のなさに対して甘っちょろいのはやっぱり民度の問われる話だろうし、普段民度民度いう向きの人たちがそういうことに目をそむけてるのはやっぱり気になる。

ともあれ、「厚顔無恥」であることは政治家の美徳ではないと思う。むしろ恥を知ることこそ政治家の最も必要な資質だろう。時には倫理的に正しくないことをしなければならないのが政治家だと理解してればなおさら、それが開き直りによる正当化で片付けられてはならないと思うよね。仮にそれを墓場まで持っていくのも恥を知ってこそだろう。

でもさ、最近だと例えば「恥ずかしいからやめなさい!」という言葉に対しても「恥ずかしいからじゃなくて正しくないからだろ。叱り方が間違っている!」みたいなことをよく言うよね。でも、正しさという、外部の判断基準を元にしていて、かつ、時代によって変動しうるものを絶対的な価値観として行動規範にするのって実は良くないことなんだよ。自分の中に一つ軸を持つとしたらそれは論理じゃなくて倫理であるべきだし、それを貫き通した人に対して「馬鹿なことをしたよな」と評するのは実に狭っ苦しい精神だと思う。「恥ずべきこと」を規定して行動規範を作ることは基本的には良いことだと思う。仮に自分の倫理に抵触したことをやらざるを得ない場合も、社会的には正当化されるとしても、自分の中では正当化できないということを抱えながら行っていくことは人間としての基本的な動作であって良いと思う。もっとも、それが故に自殺を選ぶ必要がある、ということはなんとかなるべきだとは思うけれども…