novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

ブラックでないだけで十分なこともある

blog.tinect.jp

ごもっともなんだけど、そう単純な話でもないよなあって思ったりするんですよ。
というのも、結局のところ「金(すなわち給与)」と引き換えにするものはなにか、ということなんですよね。これは前も書いたかもしれないけど、現状の人が集まらない仕事の問題って、「貰った金に見合っている」と感じないことがままある、ということなんですよね。例えば、コンビニバイトは金額が安いから人が来ないというのは確かなんだけど、じゃあ金額を上げると来るかって言うとそんなことはない。そんな仕事やりたくない、という気持ちがあるから集まらないんだよね。どんなに金額を上げても、こんなに責任があるならやる意味がないよね、ってなったりする。

だから、本当は十分優秀な人がやってくる可能性があるのに人が集まらないってのは、金額の問題じゃなくて、仕事の内容とか、立場とか、責任とかがクリアじゃないと思われている可能性だってあるんだよね。給与ってのは額面だけの問題でもなかったりするし、前職よりも少ない責任範囲で思う存分得意分野の腕をふるいたいって人だっていて、そのために多少の給与ダウンは許容するって人にも結構会ったよ。

ってな話をするとやり甲斐云々というのは古い、みたいなことを言われたりするけど、やっぱり仕事って「割り切って金」か「やりたいことをやって金」だったら後者は多少安くてもいいよねって人はいっぱいいるんですよ。だから、やりたい仕事ってのはとても大事だし、それをアピールできる会社であるってこともとても大事だし、だとしても待遇はその業界の中で自社の水準をどれだけ高められるか(そりゃITだからみんなGoogleと同じ給与出せ、なんてのはナンセンスなわけじゃん?)って話ではあるけどね。

結局は、バランスなんで、「いい人が来ない」という悩みを金の問題って断じるだけの人ってあんまり他者を評価するセンス無いんじゃないかって思ったりはする。

Webにおけるブランドのコントロールを誰が行うのか問題

タイツの話じゃないです(後で読んでわからなくなる時事ネタ)

こっちの件ですね。

これ、やり玉に上がっている緑のところは想像でしかないけど、他の会社での経験を踏まえるとまあ解決しづらい問題なんですよね。

というのは、銀行に限らず、サービスのサイト(実際に業務が動いているサイト。銀行でいうとインバンとか)と、コーポレートサイトというか紹介サイトと言うか、まあホームページですよね、は担当している部門が全く違うことがほとんどです。というか、サービス側は所管のユーザー部門は居るものの、サイト自体の構築はIT部門の目が通っているし、プライバシーの保護とかそういうところはベンダー含めて重要視している。ホームページはたいていユーザー部門主導で作っていて、解析屋やマーケティング屋が入り込んでいる。結果として、ガバナンスが利いてない可能性が結構あるんですよ。ログインページのリンク(変なものがついてないか、ページ側でチェックしている…)にgaのパラメータ平気で埋めてきたりとかするから。

ユーザー部門は顧客から以下に情報を引き出すか、しか考えてないことが多いし、解析屋は「顧客(ここではサイト側ね)の業種としての遵守事項」なんてものを意識して提案掛けてきたりしない。こうすればこういうデータを取れますよ、しか言わんのじゃないかな(きちんとやっているところもいるだろうけど、こういう事例がある以上、ダメなところもかなりあるはず)。マーケティング屋も同様で、本来であればそういう提案に対して様々な観点でチェックを入れるのがIT部門の役割だったりするんだけど、IT部門通ってないからね。コンプラは文言以外はそれほどチェック厳しくないし。

で、その延長線上でインバンとかも「ここにxx埋めていい」とか、近年で言うとGTMのタグ埋めといて(で、後で無法なタグが埋まる)という、IT部門でコントロール不能な要件が埋まっちゃったりするんですよね。変なタグ埋めると動作保証できないけどそれでもやる?っていつも言いますが(いまのところ、僕の担当するほんちゃんの業務サイトには埋められてないが…)。

こういうのって、マーケティング系ユーザー部門主導で「ウェブサイトを」コントロールする場合の全般的な問題なんですよね。実際のユーザーは少なくとも「ウェブの」プロではないし、一方でそこに集まってくる「ウェブの」プロはシステムのプロでも法制度のプロでもないんですよね。そうすると、企業のブランディングを行う際のもっとも入口となるページがもっとも無法地帯ってなり兼ねないんですよ。

たかが企業のマーケティングサイト、であってももはやITが守るべきルールを回避することは出来ないし、ウェブマーケの人たちはこの現状、そろそろヤバいって思ってほしいな。(Gやらへの依存度も含めてね)

可視化だけでは解決につながらないねえ

togetter.com

もはやMeTooが良いように使われちゃっている事例だよねえ。このブコメでの対立ってのは結局の所「問題を認識した」と「問題が解決されるように動く」の大きな違いが全然埋まらないどころか、可視化されたことで過剰に対立を招いているとすら言っても良いんじゃないかな。

何しろ、プロフェッショナルの世界においても「善きサマリア人の法」という考え方(これ自体は考え方だからね)をベースにしないと行動を躊躇する、ということがあるわけなんだからいわんや素人をやって話ですよね。

MeTooというよりはそもそもWeb(もっと狭めに言うとTwitterとかFacebookなんだろうか)によって問題の可視化がされてきた、という歴史はあるにしても、それって結局n=1からx(狭い)の主観の提示に過ぎないことも多々あったし、もちろんそれがきっかけになって「調査が」進んだりすることもあったんだけど、ここ最近ではこの極小数の事例をトリガーに一般的な解決を図るという間違った方針をとりがちなのではないかと危惧している。特に(やり玉に上げるというつもりはないけど)社会学において調査などを含めたフィールドワークではなく、ごく僅かな事例を元にした主観で語る、という話が増えているようにも思える(少なくとも僕の周りにいた、社会学で大学院に行った人たちはそんなことをしていなかった)。これも、結局のところ、本来の活動の場以外でカジュアルに物事を社会に発信する(=責任が曖昧なまま立場にものを言わせた発言をする)みたいな手段が増えてしまったことに起因しているのではなかろうか。

ともかく、可視化したからと言って問題が解決するわけではないので問題解決に動かなければならないんだけど、社会の問題ってのはほとんどの場合、単純に原因を取り除く、ということは出来ない(ホームレスをなくすにはホームレスを虐殺すればよいわけでもなければ、ホームレスに3億円配ればよいわけでもない)。現実的に取りうる案、というのは別の誰かの痛みを伴うわけで、細かく社会としての合意を積み上げていくことでしか解決しない。ともすれば、「今そこにある」問題ってのは絶対に解決できないということにもなる(その代わりに、50年後は今よりマシな世の中になっているかもしれない)。

でも、こういう時代においては「自分の幸せが今この場で実現できること」が価値観の最上位に来てしまいがち(そして家族のために頑張るという価値観でブラック企業で仕事をしている人がDISられる。なぜだろうか)。社会の対立の構図をより鮮明にする、という意味では可視化というのは実はあまり良くないことかもしれないし、可視化を元にドラスティックに社会を変えるということは今までは常に暴力と共に実施されてきた(し、よりよいということを免罪符として多くの今幸せな人を不幸に追い込んできた)わけだ。

より大きな目的のためには犠牲を厭わない、というのも一つの考え方なんだけど、ミクロな価値観の部分でそのような考え方でみんながぶつかりまくってしまう、というのはどう考えても幸福な状態ではないように思える。