novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

問題提起をした後、政治に丸投げにはできないよねえ

れいわ新選組は山本太郎の言っていることはさっぱり意味わからないので党として支持できないけど、国会議員として木村英子議員を送り込んだことについては功績として認めざるを得ないって思っている(舩後議員の方は僕が活動をあまり把握していないのもあって評価しづらいだけで他意はない)。

結局、当事者が深く政治にコミットする体制を作らないと問題って解決しないし、そういう意味では国会議員になったのはスタート地点に過ぎないとは思うけど、希望はあるよね。

社会における「ある問題」を解決することを活動の中心として国会議員になるってのは有権者の支持を得なければならない。でも運動(問題)の内容によっては大勢の支持を得にくいものはあるだろうし、そこを打開していくのってとても難しい。ショッキングな事件に伴ってポジティブ(まあそれをポジティブというのかはさておき、意味的には)な方向に世間が受け止めて事態が動く、ということはもちろんある。極端な例としては焼身自殺とかあるけど、大事故とか、大犯罪とか、そういうのもね。悪い言い方をすると、大衆を煽動しなければならない。まあ、本当の目的を隠して、騙してやっている、とかでなければ煽動っていい方をするのは悪意があるかもしれないね。ともかく、どのようにして大衆の支持を得るのか、というのは極めて政治的な事項だ、ということではあるわけです。

実が伴わない煽動家は社会の混乱の元になることはあるだろうけど、逆に大衆の支持を得ることを軽視している人たちは一体全体何を実現したいんだろうって思うことはよくあるのです。それが政治家の仕事って言う人もたまにいますけど、既存の政治家は既存の問題に取り組んでいるから政治家の仕事だとしても誰か支持している人を動かすっていう政治的な活動は必要だし、それが見つからなかったり力が足りなかったりする場合は自分で政治をやることを目指すか、諦めるしかないよね。大勢の有権者を政治家のもとに連れていけば話は聞いてもらえるかもしれない。

まあ、社会のあり方として原則論から倫理に訴える、というのも一つの方向性だけど、倫理は守られないから法律があるんだよな、と思ってしまう。

「誰でも当たり前に」を実現するのは結局人間なんだよ

いくら制度があっても運用されないと意味がないし、運用されないことに文句を言ったらすぐ運用されるかと言うとそんなことはないので、最後は人間であり社会の問題になるわけです。だから意識を、というのは言うのは易しですが、だからといって「全員がいやいや運用している」という状況が正しいわけではないよね。

不平等やら不公平、不公正について語るときに、「優越側にいる人は負債を持っている」ようなことをいい始めることがあると思うんだけど、これは、理屈の上ではそうなんだけど、これをベースに「平等のために犠牲になれ」みたいな話になるとちょっと違うよね。もちろん、負担を増やす、ということはあるんだけど、それが個々の行動における負担である必然性はなくて、(間接的には行動への負担につながるかもしれないけど)金で解決するならそれでよいわけじゃない。個々の人々が温かい社会なんて要らないんですよ。

でも、それって社会というものがコミュニティの枠組みだと考えたときにあまりに寂しいよね。だからある程度人間関係ベースの策も考えるし、「助け合い」という概念も出てくる。大事なのはバランスとか、逃げ道とかであって、自助みたいな話を頭から否定するのもあまり良いこととは言えないし、でも自助に頼らざるを得ない状況は作っちゃダメだよね、とかね。理想的には狭いコミュニティーで解決できる課題はその中で解決するのが効率がいいに決まっている。でも効率のために犠牲になるものが大きすぎるときに、それを改善する口がない、というのが良くないわけだ。また、この手の話は悪意に弱すぎるから、そういった問題が可視化された現代において、手段としてあまり選ばれなくなっている(そして、最後の砦はいい意味でも悪い意味でも学校とお役所だと思う…)。

どんなに理屈を積み上げても、最後に運用するのは人間だし、人間であればコミュニケーションは必要だし、結果、運用をする人たちは善意にも悪意にもさらされるよね。制度そのものはそういった部分のストレスを軽減させるようなことは組み込めないし、まさにそれが人間系の仕事なわけだ。だから、人間系の対応は極力減らす、というのが一つの解ではあるけど、どうしても人間系は残ってしまう。そういった残ったところへの配慮ってのは健常者とか障害者とか関係なく、それこそ「当たり前」であることは大事だと思うよ(毎回挨拶をせよ、という儀礼的な話ではない)。

正しいことを、求められて行う、ということは結構なストレス源ではあるんだから、社会を円滑に運営するためにはそれを軽減することをみんなで考えるということは必要だと思う。

また洗練されたラーメンを食べてしまった…

なんかこう、最近うまいと評判の店に下調べ無しで行くと大体洗練されたラーメンで大変美味しいんだけど、どうもこれと言って新しい感じがなくなってきているんだよね。洗練されていてとても美味いんだけど…

僕の記憶の中でラーメン屋(Not 中華料理屋)に行き始めた頃はなんでんかんでんがまず流行って、環七ラーメンブームがあって、まあまあ近く(と言っても結構遠いけどチャリで行けるあたり)にあった今はなき環七高円寺あたりの「峰」の豚骨と角煮かな?でいつもと違うラーメンだなんだこれはって思って大学生になったら六角家に連れて行かれてバイトの前後で銀座のじゃんがらでぼんしゃん替え玉2回くらいよく食ってて昼間は二郎の本店で東京豚骨ラーメンやらダブルスープの青葉やら麺屋武蔵やら、とにかく、新しい店に行くたびに何かが違うラーメンを食べていた気がする。

とにかく、今は丁寧にとった鶏ガラベースの醤油や塩の「洗練されたラーメン」が流行っている。間違いなく流行っている。どれも大変に美味しい。でもどれも同じような感想しか出てこない。

ちゃんとそうじゃないラーメンもあるわけだから、ちゃんと探していってみよう…