novtanの日常

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二郎という喰い物を再考する

先日久々に地元近くの二郎を喰いに行った。久々に喰った二郎はまあ二郎だった。

三田の二郎で育った僕にとって、二郎というのは二郎であって二郎以外の何物でもない。であるからして、二郎はウマいマズいではなく、二郎であることそのものがそのアイデンティティーであり、「これは二郎ではない」というレッテルを貼られることが最大の屈辱なのである。

ではその「二郎であること」とはなんであるのか。これを定義するのは大変に難しい。二郎の看板を掲げていれば二郎である、というのは表面的な理解でしかないことは「XX二郎は二郎じゃないよね」とまことしやかに囁かれるマニアの噂からしても明らかである。

かつて二郎だったらーめん大を食してこれが二郎であると思うだろうか。一般の人は思うのかもしれないけど。そういう意味では大がまだ堀切二郎だったころのテイストを確認しておかなかったのは痛恨の極みではある。小伝馬町にあった派生店(ぽっぽっ屋は食べたことはあるけど、当時それほど二郎として違和感のあるものではなかったように記憶はしている。

そもそも最近幅を利かせている「二郎インスパイア系」というのは一体何をインスパイアしているのか。雰囲気か?量か?その乱暴さ加減か?

極論を言うと「普通にウマイ」二郎なんてものは二郎ではない。本店フリークにとってみれば、煮詰まったスープにいつ水が投入されるかをドキドキしながら眺めるのがたまらなくマゾいのである。昨今の悪い風潮としての「硬め」をいう時空を歪める注文を敵のように思い、オヤジの神の手がその力を発揮する(たいていは発揮しない)ことを祈るのが正しい構え方であって、「安定」という言葉はそこに存在してはならない。

とはいえ、美味いと評価されている二郎はみなそれなりに安定している。長い目で見るとそうでもないけど。本店は特別な存在であり、他の二郎に許されるものではないということか。

(うん、ジロリアンうざい。すげーうざい。定義がなんだって言うんだ関係ないだろ。)

たかが二郎、されど二郎。

ウマいマズいより二郎であることが優先。そういう食べ物を好きでいることができる人間というのはなんと不思議な生き物であろうか。