novtanの日常

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人間というものの合理性と非合理性

人を助けようとして亡くなったニュースが報じられると、大抵「無駄死にではないか」という論調の批判がなされる。そういうのを見るたびに僕は「人間ってなんなんだろう」という問いを発せずにはいられない。
3.11のあれの時もそうだった。美談を美談として捉えることの危険や嫌悪がことさらに語られていたと思う。それはそれでうなずける点もあるんだけれど、同時に大きな矛盾を感じてしまっている。
批判をする人たちは、「人間とはこう生きねばならない」という価値観の押し付けについて反発をしているんだと思う。でも、そのこと自体がともすれば別の「人間とはこう生きねばならない」を押し付けることになりかねない。

そもそも、種としての人間を考えた時の合理性というのは価値観の統制が取れていたほうがいいに決まっている。でも、人間はそのことに抗い続けてきた生き物であり、その結果(かもしれない)得た知恵の果実により地球上の生物として未曾有の繁栄をしているのだと思っている。
利他的な行動が実は利己的な利益に繋がっている、という生物の行動様式は多々存在する。人間においてもそれは例外ではない。そして、それに抗うことが種としての多様性の確保や進化に繋がるという矛盾的な部分もある。

そういう前提に立って考えた時、人間とは、種としての行動様式を行う大部分の人間と、そこから抗い続ける少数の人間からなる集合体と見做すことができると思う。
合理性を持って行動するのであれば、例えば一か八かの救出に飛び込むことは損得勘定からすると損であると見なされる、というのはわかる。しかし、社会全体が「リスクを取らない」方向に傾くことは必ずしも合理的ではない。なので、結果は不幸とし、行為をする心性を称賛するということ自体は社会にとって非合理な行為ではないのだ。

ではなぜそれを非合理であると非難するのか。それは「そんな価値観を押し付けるんじゃねーよ」という反発にすぎない。仮に自分がそういう局面に立たされたときに救出行動を選択しなかった場合に責められることを嫌がっているにすぎない。

つまり、マクロな視点において個としての価値観を、ミクロな視点において全体最適を、ということだ。一般的には逆だろうが、合理性を意識しながらも「抗うもの」としてあらんとすると、矛盾的な存在になってしまう。そして、いかにそういった視点を持っていたとしても、最終的にミクロ部分での行動において、個としての価値観を優先させてしまうことで自己を崩壊させることも多いのではないか。現代の精神的な病の根源は合理性と個の価値観の間における矛盾なのではないかと思うことすらある。

それはさておき、そう言った価値観を持つことそのものはそれほどおかしなことではないのだけれども、その価値観の元において、例えば「やりがい搾取」を非難するような事があるのも矛盾ではないか。本来、個人の価値観に基づいて理不尽な行動をすることそのものは大いに認められなくてはならないのではないか。

以上については、下記のエントリを読んだことによる思考実験である。
土下座と坊主と自己犠牲を称賛するおかしな社会 : つぶやきかさこ

グダグタ書いてしまったが、端的に言うと「犬死にを不合理と見做すのは一見合理的思考に基づくようだが、実のところ個の価値観を尊重しろと言っているだけではないのか」という疑問である。生産性とか何とか理由をつけるのではなく「俺は俺が大事だから死ぬリスクを犯してまで他人を助けたりしないぜ!」って言えばいいだけではないだろうか。