novtanの日常

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ブランドを確立する意味(食品偽装問題に寄せて

人間は情報を食べるとよく言われます。それは人間が社会的な動物であるという証拠でもあるし、人間の感覚において脳の果たす役割が極めて大きいということでもあります。

もとより「美味しい」という感覚には個人差があり、好みにも左右されますから、普遍的に美味しいという感覚は社会的にしか作り上げられないものでもありますし、何を美味しいとみなすかこそが積み上げられてきた文化そのものとも言えます。美味しいという価値観は身体的な感覚と切り離されて作り上げられてきた部分がかなりあるものなのです。

とはいえ、我々が「美味しいと感じやすい」要素というのはたくさんあります。アミノ酸、糖、脂質などの様々な状態が美味しいという感覚を引き起こしやすくしています。それはトレーニングによってより鋭敏になったり、慣れやその他の要素によって鈍麻してしまうものではありますが。

一般的に「美味しい」とされる食べ物はやはりそういう感覚を起こしやすいようになっていますし、「こういう理由で美味しい」というべき特徴を持っているものです。情報を食べるというのは正しいのですが、その「情報を食べる」行為は食物を摂取することによってその情報を処理するということに他ならず、トリガーとしての食物は必要だと考えることができます。

騙される、というのは食べるという行為にとっては幸せな話です。代用の食物によって誤ったトリガーで美味しいという感覚を起こすことができればそれはそれはリーズナブルな話です。残念ながら人間の感覚はそれなりに鋭敏な部分もありますから、一度「本当の味」を知ってしまうと容易に騙されなくなってしまうこともあります。とはいえ、目隠しして食べたらわからないなんていういい加減さも発揮されがちです。見た目も含めた情報を元に食べているんだからそれはしょうがないですよね。

さてさて。

安い順に「牛上肉\470」「牛最上肉\520」で、次が何と「牛肉\630」なのだ。\730の牛モモ肉、牛肩ロースと続いて「特選牛肉\840」となっていく。
「牛肉」が「最上肉」より安いのも謎だけれど、産地など一切書かれていない。というわけで、その時の懐具合や料理に応じて相談しながら何となく決める。
牛は牛、豚は豚、鶏は鶏。
昔は、と言っても20年くらい前はこれが普通だった。基本的には「牛肉」という「普通名詞」の食品を食べていたのである。その頃、固有名詞を持っていたのは、神戸、松坂、近江くらいだった。

「固有名詞」を食べてきた日本人。 - from_NY

残念ながら、この話も日本人が「固有名詞」を食べているという文脈からかけらも離れていません。果たして「牛上肉\470」「牛最上肉\520」の区別がつくものなんでしょうか。これを「固有名詞」を食べていないというふうに言えるのでしょうか。

以前年下の友人が「本当にうまい店は、産地とか書いてない気がする」と言っていた。今から15年くらい前だったが、慧眼だったと思う。真っ当な店は、メニューに余計な固有名詞を書いたりしない。

「固有名詞」を食べてきた日本人。 - from_NY

ブランドというのは「そういう味」を示す重要な情報なんですね。つまり、どの程度のものかを食べる前から評価することが出来る。もちろん、常に産地を書くべき、という話ではないです。書いていても本当に美味い店はあるし、書いてなくても本当に美味い店はある。

ちなみに、この肉屋はスーパーの真ん前に店を開いているが、ちゃんと営業を続けている。このスーパーも決して品質が悪いわけではないのだけど、支持されているのだ。

「固有名詞」を食べてきた日本人。 - from_NY

仮に、近所のお店が「XX精肉店の牛最上肉のXXX」というメニューを出した場合、ご近所の人は「ああ、あそこのお肉だったら美味しそうだね」と評価するのだとしたら、それは立派にブランドなんですよね。

というわけで、これからの外食産業がするべきことは実に簡単。余計な「産地名」に頼らず、単純に「料理名」で勝負すればいいのだ。

「固有名詞」を食べてきた日本人。 - from_NY

このことには一理あります。美味しけりゃいいんでしょ。そういう意味では「料理名」すら要らない。「シェフの気まぐれランチ」でも言い訳です。でも、みんなは「今日はステーキっぽいものが食べたいなー」と思うから料理名が必要なんですよね。それを拡大していくと「今日は松阪牛が食べたいなー。あのサシが入った肉がたまらん」「今日は伊勢海老が食べたいなー」等々思うわけですよ。もちろん、結果としてその「これが食べたい」という感覚を満たすものであれば本物の松阪牛や伊勢海老である必要は無いのかもしれません。でも、ここでお客さんが買っているのは「ブランドにより保証される安心品質」なんですよね。そして、ブランドの産地もそれを目指しているからこそブランド化を頑張るわけです。

偽装表示をするというのは、そういう意味で生産者と消費者の両方を裏切っている行為なんですよね。

美味しければ正義、というのは確かにあります。でも、毎日お店のオススメだけ食べて満足しているってのはある意味食文化というものを低く見ているようなものです(それはそれで有りなんだけど、他者を批判するのは間違い)。

食文化の難しいところは、日常でも有り、芸術でもあるという二面性であり、音楽にクラシックとポップスがある(他にも色々ある)という問題と似ています。一つ重要な点は、それだけではなく食には「安全」という重要なファクターも存在することです。

食のブランドってのは確かに情報を食わせる面が強いという問題があります。でも、逆に言うと、ブランドが張り付いているからこそ僕たちは批評ができ、批判もできるということですよね。

文化を楽しむためには提供者に嘘をついては欲しくないし、そうやって品質を担保することが安全にもつながっていくんですよね。