novtanの日常

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「物語」というチート

作曲家界隈での反応を聞いてみたいところなんですが、自分の見える範囲には積極的コメントをしている人が見つからなかったので後で知り合いに打診してみるとして。

ゴーストライターの存在自体はアイドルじゃあるまいし職業作曲家としてはあってはならないだろうなと思うんだけど、彼が元からいわゆるタレントとして売りだされたのであればそれは非常に残酷なことではあります。ゴーストライターにとってもね。ゴーストライターの新垣氏がどういう気持で曲が評価されることを受け止めていたか。

クラシックの作曲家というのは現代においてかなり割の合わない職業ではないかと思います。職業作曲家としての収入という観点から考えると、「全聾であるという物語」は相当強力なチートであり、同じレベルの曲どころか結構レベルに差がある曲でも世間一般の評価(=売れること)においては相当な差になってしまうというかそもそも物語の一つや二つないと売れないというのが現状ではないかと思うんですよね。

つくづく思うんですが、表現者にとって「物語」は「呪い」です。芸術ではなく生計と考えた場合はそうでもないですが、時に批判をも封じ込める強力な物語はその創造した作品にとっての時限爆弾です。物語を批判し、否定することは非常に難しい。それはそこに置かれた事実でしか無いからです。しかし、作品そのものへの真摯な批評は時として物語の批判と言われ、嫉妬と見做されることもあります。結局のところ、死後にしてようやく正当な評価がなされるということになったりします。

ゴーストライターの立場からすると、死ぬまで作品についての本当の批評はなされないことを覚悟しなければならないのです。

ベートーヴェンは耳が聴こえなかったと言われます。しかしその事実をもって評価されているわけではないのはご存知のとおりです。では当時の人達に物語の消費があったのかなかったのか。ベートーヴェンの葬儀には2万人の市民が参列したと言います。音楽という芸術を大衆のものにしようとした彼の生涯の成果がそこに現れているのか、それとも物語性がそれを為したのか、今になっては知るすべはありませんが、彼の音楽は今なお我々を惹きつけてやみません。

物語というチートを使ってしまった人間は、死ぬまでその呪縛に囚われることになります。物語が虚構であったのはもしかしたら幸いだったのかもしれません。

物語を信じ、評価した人をあざ笑うことも出来るでしょう。しかし、物語という呪縛が解けたことによってはじめて批評の土俵に上がった曲であるということも出来ます。同業者がかの物語に対して怨念を抱いていたとしたら、それが今まさに一斉に襲いかかることになるでしょう。僕は曲を聞いたことが(多分)ないので、曲そのものがどのようなものであったかについては今までそれを聴いてきた人たちに任せたいと思います。