そりゃさあ、鬱病の人が居て、仕事が切羽詰まっているのに会社に来なくなっちゃったりすると「あー…」って思うことはあるよね。辞めてくれて鬱病じゃない人が入ってくれりゃあその分楽になるしねえ。思わず「ヤメテクレー」って言っちゃうことはあるよ。にんげんだもの。あーにんげんだものって便利なフレーズやね。
当然だけど、そういう言葉は自分本位のポジショントークみたいなものだし、友人に愚痴って「そうだねー。たいへんだねー。でも社会ってそんなもんだよねー」って言ってもらうようなレベルの会話でしかないんだよね。
インターネットって、だからもうとてつもなく「公」の場になっちゃってるんだろうなーって思うわけですよね。社会的に不適切な話は相応の文脈の上で無い限りは書けないんですよね。テレビみたいなもの。
増田で放言したりするのは機能的には正しいんだよ。社会的文脈(所属まで判明している実名とか)から切り離されないと公度が高まって大火傷するわけですよ。あ、なんか上手いこと言ったかも…
「本当に思っている」ことってのは欲望だったり、妄想だったりするし、思っていけないことでは全然ないんだよね。社会っていうのはそういう本当のことをどの程度言っても良いのかという価値判断で構成されているんだけどね。
子供はよく大人は嘘をつくっていうけど、大人は嘘を付いているんじゃなくて社会的によく訓練された結果として言うことに制約を設けているわけだ。子供の目からは本音を言わないことは嘘をついているようにみえる。
本音を垂れながす大人ってのはそういう意味では精神が子供なんだよね。
残念ながら、Twitterの公開アカウントで不適切な発言をすることってのはそういうことだよね。