novtanの日常

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正しさへのリソース投下と酸っぱい葡萄

この何十年間か、日本は(もちろん、一部を除く世界も、だが)「正しさ」にかなりのリソースを投下してきたよね。
世界が思いっきり成長していた時代にはリソースは潤沢で、正しさのために尽きることはなかった。あるいは、まだ正しさのレベルが低かったのかも。だけれども、長い不況の中、正しさを維持するためのリソースは減る一方で、正しさの要求レベルはうなぎのぼりだ。思想の問題を抜きにしたって、CO2だとか、生物多様性とか、あるいは遺跡が見つかっちゃったとか、そういう話だって昔に比べたら大変なリソースを費やしているよね。だから、欧州のディーゼルエンジンごまかし話は衝撃的なわけでさ。アップルだって工場にどういう仕打ちをしていたか、という話でもある。日本企業の競争力のなさは悪辣性の欠如の結果といえる部分がいくらかはあるだろう(それが主要因ではないともうけどね)。

「正しさのために費やしている金を俺らの生活のためによこせ」というような思想は、あながちおかしなものではない。といっても、その正しさのもとでないと「俺ら」は生きていけないかもしれないくらいには、正しさは(主に西洋側の)世界の前提にはなっている。

それはそうなんだけど、最近ちょっと気になるのは、単にリソースが足りない結果として良くないことが起きている社会の問題について、本来やりたかった事自体が間違っている、というような意見が増えてきたんじゃないかってところ。「貧乏だからできなくなりました」という現実から目を背けて、「そんなもの初めからおかしいんだよ」って言ってしまうようなのはなんかちょっと違うなあって思うんだよね。