novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

礼と多様性

獣に人間の皮をかぶせるために伝統的な手法として礼儀と宗教があるんだと思うんだけど、理性を他者に依存しなくてよいのであればそれは必要ない。多様性の時代になって礼を失する、というのはそういうことなのかもしれない。これも文化圏の衝突に近い話で、リベラルと保守のある種相容れないところにも思えるし、混ぜるな危険、なのか、積極的に混ぜていくべきなのか、も実はよくわからないんだけど。

礼ってのは規範であるし、人に窮屈を強いる代わりに社会の一員である資格を与える(この部分については宗教も似た機能を持っている)ものだと思う。であれば、それは窮屈の極みであるし、多様性を求めない(許さないとまでは言わないけど、軋轢のもとになる)というのが本質だろうね。道徳やらモラルやらなんやらかんやらというのは基本的にはそういうたぐいのもので、そこから逸脱することは原則許されないとなると、現代人の理性からすると打ち破るべき旧弊(という部分がある)になってしまうんだけど、単純に旧弊を打倒だけすると理性を持ち合わせないたぐいの人間は獣になってしまうわけだ。理性に「期待する」のは現状を踏まえて考えると分の悪い賭けでしかない。

だから、リベラルってのは、啓蒙主義は通り越していて現実とどう折り合いを付けるかが課題のはずなんだけど、最近は単純な旧弊打倒みたいなのも見え隠れするんだよね。これがまた話がおかしくて、それが可能になる前提である理性の存在すらそこでは確固たる地位を持っていないように見える。そうするとこれは単なるアナキズムにも感じられる。

いずれにしても、礼を失った世界というのはそういうもので、一定以上の理性をもつ人工が大多数でない限りは弱肉強食に堕ちていってしまうだろうけど、窮屈から解放されたいという一心だけでそちら側に向かってしまうのは良くないよなあ。

僕自身は(個としての)他者への関心が低すぎることに起因して多様性を持つことに対して許容度が高い(つまり鈍感ということで別に褒められたことではない)と思っているんだけど、どうしても抑制的なことを書いてしまうのはそういった意識があるからとは思っている。

人間らしくあるとはどういうことか、に向き合わないで個の解放について考えるのはまだ早いんじゃないの、とかね。

で、こんなことを書くのは別にお気楽な気分ではないんである。誰もが苦しみを背負わない社会なんてとりあえず今はないよね。