novtanの日常

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「ルックバック」をめぐる反応について

雑感だけど。

作品に対する熱狂みたいなものは、当然の話としてネガポジ両方の反応が強く出てくる契機になりうるけど、表現に対する反応ってのはそういうものだよね、というのが第一印象。
とはいえ、「騒ぎすぎじゃね?」という気持ちが伴っている。

正直、実際の事件であるとか、人の問題であるとかそういう話ってどうでもよい。というか、これを「軽視してはいけない」という意見はもっともなんだけど、必ず考えなければならない、となると作品にとっては不幸だと思う。今回もこんな熱狂がなければ、そんなところが大きな問題になるとは思えないんだよね。

熱狂というのはすなわち「社会的影響」につながる反応であり、それこそ社会運動の起点にもなりうる話ではあるんだけど、そもそもこの話の熱狂の起点は何なんだろうか。社会問題についての何かを提起したかったのだろうか。僕はそうは思ってなくて、極めて個人的な「感情」の問題を綴ったもの(それのトリガーが社会にとって大きな問題だったとしてもよ)であるとしか思っていない。もちろん、表現というものはそのあと当然のように独り歩きして社会に影響を与えていく。だから、作者の天才性とかをクローズアップするというのはこの作品における熱狂についてはどうも的外れに感じるんだよね。「作者は天才だ!」が熱狂の中心になっている人は果たして作品から「作者の天才性」以外の何かを感じたのかって思ってしまう。少なくとも素直にあの作品を見たときに「作者は天才だ」なんて感想に終始することは絶対ないと思う。だから、「作者が天才」「チェンソーマンの人」みたいなところが入口になって熱狂している人はある意味この作品の受容としては不幸なプロセスをたどってるのでは?とすら思う。
(そもそも、僕自身はこの作品が誰が書いたかなど最初はまったくもって気にしていなかった。作者に対する熱心な読者ではないからかもしれない)

作品から受け取れることを突き詰めて考えたい人は考えれば良い。でも、作品を読んだときに、その背景について「必ず考えなければならない」わけではないし、それを強制すること自体が世界を狭める行為だと思うんだよな。