novtanの日常

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「親ガチャ」の本質は「正しく生きると希望がない」からではないか

「親ガチャ」という身も蓋もない単語が放火の的になったりしている気がする今日このごろですが。

「希望は、戦争。」からもう15年も経ってるんだよな。

アメリカンドリームに象徴されるような成り上がりのストーリーって、21世紀にはいってイメージがどんどん是正されてきていて、少なくとも「表向きは」正しい成功のあり方みたいなのが強く規定されているように思えます。ようは、一発当てて社長になって女侍らして毎日呑み歩く、というのが不道徳の極みみたいなイメージをどんどん持たせれている一方で、定時で上がって家事もちゃんとやって子供は虐待しないで費用をかけて育てる、みたいなことが正しい有り様なんて言われてますよね。実際にそれが正しい有り様そのものだ、なんて多分誰も言ってない(言ったらそれはそれで怒られる)けど、その個々のディテールについて、このイメージから外れることをすると怒られる。

で、現実においては、残業しても残業しても大して収入が上がらない上に、家庭を顧みないとか言われるわけでしょ。生きていてもいいことないハードモードだよね。

だから、イージーモードに親ガチャで入れたやつ、みたいな話になっちゃうんですよ。

昭和から平成にかけて、個人が尊重される一方で、その前提みたいな流れで正しさが変に規定されて、結果的に尊重されるのは個人ではなく正しい個人だ、みたいになりかかってないですか、というのはずっと思っているんですが。他人に過剰に迷惑をかけないのであれば、家族の有り様にしたって、個人の生き様にしたって、自由だろって思うんだけどね。
※その点においては「結果的に他人に迷惑をかけることになるからやめろ」という圧力が生じてきているのはインターネットという存在そのものに原因があるような気がしてならないけど。

まあ別にインモラルに生きようぜって話ではないんですけど、頑張って得られる結果が世間体を気にした窮屈な生活、であればそりゃ夢も希望もないわけですよ。もう少し適当に生きて適当に幸せにやってられますってのであれば、親ガチャとかいう人そんなに居ないと思うんだけどね。