novtanの日常

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社会が正しさに疲弊している

維新の議員に投票するのなんてバカだ、と思う人はそれなりにいると思う。僕もそうは思う。一方で、じゃあどうすんの、と言ったときに、代わりの答えを明確には持っていない。そもそも維新がそんなに悪いのか。確かに差別主義者に見える。発言だけ見ると完全にそうだ。でも、差別的な条例を制定したのか。大きく報道されている限りではそこまではしているようには見えない。行政に対して破壊的な変更を行っているのは認識している。でもその破壊は旧来の問題も同時に破壊している。それが正しいことなのかは僕には評価できないけれど、少なくとも、彼らは何かを「やった」。

ドブ板選挙的活動が勝因だ、という分析も正しいと思うけど、なんだかんだいって、「彼らはやった」わけだ。明らかに間違っているのでは?と首を傾げたくなることもたくさんある。だから、個人的には支持することはできないが、政治において「xxをなんとかしてほしい」の一点が合致するだけでも投票するに値する、とジャッジすること自体はよくあることであり(そうじゃないと今回の野党共闘なんて意味ないよね)、だとしたら、差別的言動は「おいといて」、やってもらいたいことのために応援する(ましてや、個人個人が強く差別を打ち出しているわけではない。維新のそういうところは嫌いだけど、目の前にいる候補者は応援するよ)という人はたくさんいるだろう。

80年近く民主主義やってきた国としては、随分原始的な話のようにも思えるけど、理由を考えていくうちに僕たちはどうやら正しさに疲弊してしまっているからではないか、と思い始めている。

旧体制を打ち砕くのなんて、言ってみれば新しい利益集団に軸足を移すだけの行為だと思うけど、仮にそうだとしたって大企業病を打ち砕くような機能はあるわけだ。だから、結局選挙なんて「清く正しい社会を!」じゃなくて「私達に利益を!」が本音だよね。そういうことの繰り返しでは社会は「進歩」していかないけど、少なくとも停滞からの衰退を防ぐ機能は幾分かはあると思う。ただし、社会が無限に成長するわけではない以上、どこかでそういうところを切り替えていかなければならない。バブル崩壊あたりのターニングポイントになっていると思っていたけど、その後のデフレ不況によって、たどり着きたかった「正しい社会」までは道半ば、という状況で、後退し始めたのではないかな。

随分と、そういうことには抵抗してきたつもりでいるんだけど、疲弊した社会において、少なくなったパイの奪い合いをしなければならないなんて考えると四の五の言ってられないのではとも考えてしまう。

リベラルは我慢、ということを以前述べたけれども、本音を言うと、我慢なんてしたくないよね。余裕がある中での我慢ならともかく、お先真っ暗の中で、なにをどこまで我慢しなければならないのか。それでも日本人は我慢をしている方だと思う。我慢をしすぎてフラストレーションが溜まりすぎているのだとしたら、その解消に選ばれるのは、随分反動的な話になるのではないか。「正しさ」までもがそういう狂気に支配されつつあるような気がしてならない。リベラルは自らの「正しさ」に耐えきれなくなっているのではないか。