ちょっと具体的な発言を見つけられなかったんですが、もっともらしい話なので警告的に書いておきます。
「どんなアイデアも全部ありえない事と前例主義で潰していくニセ科学批判派」
小保方さんはアイディアを不十分なエビデンスとともに提示したところ、ありえないとして認められませんでした。前例主義ではなくエビデンスが主張を証明するに足るものではなかったからです。
小保方さんは、科学の前例主義が自分を拒んでいるという考えを抱かず、科学の方法が自分の考えを証明してくれることを信じて愚直にエビデンスを積み上げていった結果、今回、十分に信頼するに足ると認められました。
ニセ科学と呼ばれている人々が決してやらないエビデンスの積み上げをです。
一緒にしては失礼です。
今回のことはありえないと否定されたことが後で認められる「こともある」だけであり、ありえないと言われたことが真実であることを担保することには全くなりません。
「ウチも先進的すぎて拒絶されてる」
どちらかというと今回の件は先進的じゃなさすぎて、他の人が気づかなかったり、気のせいだと見切っていたものに近いです。
科学において先進的かどうかは重要ではありません。仮説とそれを証明するに足るエビデンスがあるかないかが重要なんです。
先進的だから認められない、というのはそれが真実であることを担保することには全くなりません。
科学は公平だった
今回、小保方さんが示してくれたのは科学の公平性です。どんなに常識的にありえないと思っても、十分なエビデンスがあれば科学は受入れ、過ちを訂正することに躊躇がありません(もっとも、疑いの目をもって追試されることはしばらく続くでしょうし、実用性があるかどうかの評価はこれからです)。
これほどまでに「エビデンスこそ科学である」ということをアピールする発見はここ最近では珍しいものです。
気をつけなくてはならないのは、まず発見があった、ということです。それが勘違いではなかったことを証明するのにこれだけの歳月が必要だったということが科学の素晴らしさと限界を示しています。
よくニセ科学では「いつか証明される」ということを根拠とすることがありますが、証明されてからじゃないとこういった発表が公式になされないというのが科学というものです。
科学の分野においては、アイディアや発見からこういった成功に結び付けられなかった人も沢山います。業績という意味では敗残者なのかもしれませんが、科学者として正しい姿勢をとり続けた結果、間違っていることが判明するというのも科学として重要な事なのです。
もちろん、ニセ科学と言われていることが真実であることが判明する事例だってあるでしょう。でもそれが真実であるのは、それが真実であることが科学的に証明されてからなのです。
真実であることが自明なものに対してそういった評価を行うのは一見時間の無駄であるように思えるかもしれません。しかし、そういった態度が真実でないことが自明であるものを退ける力にもなるのです。