novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

我慢のできないリベラルとこの世のディストピア

もう人類には地球は(ネットワーク的に)狭すぎるのだとは思うんだけど、まずもってリベラルが本来実現したいことを実現するためには人類はグローバルな存在にはなってはならず、局所的なコミュニティーを作るためのフロンティアが残っていなければならない。だから、地球人類におけるリベラルというのはちょっとずつ自分のことを我慢することでイズムの最大化を図るしか無いと思うし、それが世界平和のためなのではないかとも思うんだけど、どうにもこうにも、リベラルに限らず、我慢をするということを単純に抑圧と捉えて社会の方を変えようとする向きが多くなっているというのがここ最近の世の中のように思える。抑圧から開放されたら馬鹿になっちゃいました、じゃ、人類に未来はない。

ティプトリーJr.の悲しい結末を「殺人は殺人」と評価することが何かを生み出すのか。当面の間、人類は悲劇から教訓を得続けなければならないだろうし、個人の問題を社会の問題と接続したり、切り離したり、というのは自由にやってよい。でも苦痛から目を背けたままで幸せを享受するというのは理想的なものかもしれないけど、本質的な人間の問題をも取り扱おうとしているSFにおいてはやってはいけないことなんだろうと思う。ブラッドベリが化けて出てきそうだ。

(SFではないけれども)例えばケッチャムの小説なんて小説そのものが苦痛そのものという苦痛を理由に物事を抑圧するのであれば最初に焼かれるべきものだろうけれども、我々はそこから人間の問題を発見しないといけないと思うんだよ。

過去に功績があるから、起こした問題を不問にせよ、というつもりもないし、その内容が名前を冠するにふさわしくないことによってなにか変化がある事自体は良い思う(そしてそれは過去ノーベル賞が通った道に似ている)。むしろ、問題から目を背けず、戦い続けるために、その名前を変えてしまうことが
妥当なのかどうか、ということを常に問うべきであろうし、それがSFというものの道なのではないか。

苦痛を理由にいろいろなものから目をそむけるのはSFが描いてきたディストピアそのものの一つの形であるし、だからといって無闇矢鱈と苦痛を振りまき続ける存在を放置する、というのもおかしなことだ。この問題は誰が何をどの程度我慢すれば社会としてバランスが取れているかという話であり、全てを原則論で片付ける話でもない(だから、キャンベルとティプトリーJr.で結論が違っても良い)

ただ、この問題に真面目に向き合えば向き合うほど、我慢していないのは誰なのか、ということは明らかになりそうだとは思う。

note.mu

練馬の新店「ドリルマン練馬」は前途多難

椎名町のハズレの方にあったBASSOドリルマンという謎の名前の名ラーメン店…といわれてるけど、僕はまだ名前がゼットンだったころに一度行ったきりなので、評価はできないんだけど。

練馬にその名を冠した店ができたってことで早速行ってきたんですけどね、そもそも場所からして不安だったんだけど…

  • そもそも並ぶ場所がない
  • 店員がオペレーションに慣れておらず大行列でもないのにグダグダ
  • つけ麺メインなのに肝心の麺が…

というわけで、遠方からはしばらくは行かぬが吉かな。

追記

似たような感想を持った人が背景を調べておった…

ameblo.jp


こりゃあかんわ。そもそもカウンターの席が椅子が高すぎて食いづらいとか、あんまり客のこと考えて無い感がすごいのですよ。

元々が超有名店なので、多分名だたるラーメンブロガーが食べに来ると思うんだけど、これ、踏み絵だよね(そしてやっちまった感のある記事が沢山…)

いつまで我々は視覚依存デバイスの進化を見続けなければならないのだろうか

新しいiPhoneの発表で、事前にリークされていたとはいえグロテスクなカメラの素晴らしさが強調されると、「またか」という気分になる。スマホはもはや10年前のPCでは足元にも及ばないくらいの性能を持ちながら、より良く(良く、というのは決して現実をリアルに捉える、という意味ではない)写真を撮影することに血道を上げていて、AIは写真を修正するために最も性能を発揮するのだ。
ハードウェアボタンはまったくもってユニバーサルデザインのかけらも存在しないタッチパネルに完全に取って代わられ、数少ないボタンであったホームボタンもなくなって久しい。3D Touchも廃止された。成功したとは言えない機能ではあったが数少ない「時間トリガー以外のタッチ操作」も失われたわけだ。

タッチパネルというデバイスの、見えているところに触ればいい、というI/Fは「直感的」と言われるけれども、直感的である、ということはそれ以上の奥行きがない操作だ、ということに他ならない。それどころか、他のハードウェアキーがなくなったことによって、その直感も限定的になっている(失われていると言っても良い)。タッチパネルのジェスチャー的な操作はいくら慣れがあるとはいえ、「失敗」するのだ。iOSのアプリ切り替えのために下から上へのフリックを「タスク一覧が出るまで」のちょうどいい塩梅で実施できなくて苛ついたことはみんなあるのではないか。ボタンの時代は、失敗することは殆どなかった。ましてや、パネルが大きくなるたびに感覚で得た距離感は失われていく。かくして、またしても視覚的効果に依存しなくてはならない。テンキーとカーソルキーと決定キーだったころ、我々はある程度画面など見ずに操作ができたのではないか?スマホは入力デバイスの簡略化を繰り返した挙げ句、I/Fとしては完全に後退している。

あれほどまでに未来を感じさせたはずのスマホはもうUIという点では見るべきところはなにもない。人類を終わりなき腱鞘炎へと導くだけの装置だ。これだけ性能が上がったのに、結局の所タッチパネルが大きくなりました&きれいな写真が撮れます、以上のなんの進歩もない。電池がヘタったら替え時の消耗品である。