novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

エンジニアたるもの

「エンジニア」を名乗るものが信条にすべきものはなにか、という点において思うところはある。

UPQの件に限らず、まあ世の中綺麗事では動いていないことはわかる。仕事だって「べき論」で押し通せるところとそうではないところがあるだろう。正しいことだけで世の中が上手く動くのなら、辛い思いをしなくてすむ人はたくさんいるはずだ。

だからといって、エンジニアたるもの、原則論が妥協をしてしまってはならないと思う。現実にどう適応できるかはさておき、その根底にあるエンジニアの魂まで揺らいでしまうのであればそれはもうエンジニアという肩書はいらないんじゃないか、と思う。UPQの件だって、対応は会社の規模感の問題だから百歩譲るにせよ、ああいった適当なものにブランドネームをくっつけてそれっぽく見せるだけの商売のやり方自体を肯定するエンジニアなんてありえるのかね。騒ぎすぎっていう意味ではUPQが糞会社だってことは今に始まったことではないので今更騒ぐ話ではない、という意味であれば同意だがUPQに存在価値を認めるエンジニアというものに果たして意味があるのだろうか。

とまあそういう話で、どの分野でもあることだし、まあ完成間際と言われる某システムに関わっている人とかは骨身にしみているだろうけど、エンジニアが本音を言って物事が好転することなど世の中にはあんまりない。だからこそ「エンジニアリングについて政治的な発言をツイートするエンジニアという肩書をつけたもの」がヘイトを集めてしまうのはあまりに自然で避け得ないことなのではないか。

最近やってるもしもしゲーとか

僕のやっているゲームの生き残り率は異常。ゲームを生き残りさせたかったら僕に金を積むべき(嘘

パズドラ

中断していたときのできなかったことは一通りやって、色々面倒なことをしないとできないことは手を付けてない、というところ。マルチ用サブ垢作ってみたものの、辛い。
パズドラはようやく分類BOXみたいなのができたんだけど、相変わらず素材はスタックできないし、育てるのもキツイ。一部の廃課金層と惰性でやっている以外の人が課金しているか大変気になります。ガチャつれーし。イベントで取れるものがとても使える、みたいなのがめったになくそういう場合そんなのいらないくらいの人しか取れないというね。

黒猫

BOX関連のUIにキビキビさが欠けるという最初からの問題以外は相当改善されてて、もはや素材や経験値で悩むことはほぼゼロ、無駄に余る魔力を消化させるのが超めんどいくらい。一方でガチャは常設ガチャが全くキャラ追加されなくなったのでイベントガチャ頼み。当然インフレはするんだけど、かなりのペースで既存のカードが魔改造されて使えるようになるので長く続けている人が不利になることもあまりないというね。困ったら大体イベントでちょっと弱いけどなんとかなる精霊追加されるし。無課金でも十分行けるんだけど、お布施と思ってたまに課金してます。そういう人が多そうなのも長く続いているファクターだろう。
最初おまけ程度だったストーリー(最初なんて紙芝居すらついてなかったしな)がだんだんクオリティ上がってきているのが面白い。収益すげー良いわけではないけどそこそこ安定しているからだろうね。

FFRK

インフレ率は結構高く、継続的なガチャの引き次第で相当変わってしまうので結構厳しい。けど、いわゆる「ゲームの部分」が一番楽しいのはこれ。とは言ってもタイムアタックとか手持ちが揃ってないとスタートラインに立てない感があって厳しい。これもお布施課金はしているけど、正直黒猫に比べると高いと思ってしまう(当たりの中のハズレ率が高い…何言っているかわけわからんかもしれんがそういうこと…ので)。もうちょっと値段下げたらライト課金層が増えるんじゃないかと思ってしまう。もう劇的には売上増えなさそうだし…どれだけ廃課金に依存しているのだろうか。それ次第?

自分の差別心とどう向き合うか

差別心がないものなどいない(断言

というかね、差別心を持つこと自体が「恥ずかしい」ことなのかどうか。僕はそうは思ってない。人間の判断のありとあらゆるところに差別心は見え隠れする。その点において僕は性悪説であり、それを抑えるのが思想であり、宗教であり、理性だと思っている。だから、差別を社会に表出させることは良くないことであるという社会思想で現代社会は成り立つべきだと思うし、一方である差別を容認することで社会全体を機能させようとする社会(とそれを支える宗教)があることも否定はできない。結局のところこれは思想の領域の問題であり、今差別を社会に表出させることが良くないと思っている社会はそうではない社会だった自らを時間をかけて乗り越えてきたんだから、一足飛びにそれを他に植え付けることはできない。

僕らの社会にとって、差別が良くない、というのはあくまで「それを表出、表明してはならない」という点に尽きると思っている。もちろん、これは具体的な対象者に向けての話であり、また、広く社会に訴えかける目的で、ということに過ぎない。差別心があることを認め、それをどう抑えていくか、あるいは解消していくか、について議論したり相談したりするのに差別心の表出は欠かせないものだ。「差別は社会的によくないこと」であり、「差別心を持つ自分は悪である」と規定してはならないと思う。なぜなら、差別心のない完璧な存在でいるためには自分の中の潜在的な差別心を抹殺しなければならないが、ほとんどの人間にはそれが不可能であり、その代償行為として「悪」を規定した正義に依拠するようになるからだ。悪とはなにか。無条件に差別が許される対象だ。

差別と戦う人たちの一部に違和感がある時の殆どは、差別と戦うことが悪を撲滅することである、という意識を感じさせるときだ。