novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

わいせつ物じゃないけどわいせつだ問題

そもそも例えば裸であっても宗教画だから猥褻じゃないよね!という話にはならず、猥褻かどうかを判断するのはまずみた人個人個人がそこから何を読み取るかでしかない。つまり、そこに明確な基準はないし、文脈を共有しているかどうかで判断が異なったりもする。

一方で、禁止すべき「わいせつ物」の定義はある程度社会の要請(それすら特定個人の意見が反映されてるものに過ぎないことも多々あるが)によって決められ、その基準は容易には変更されないよね。

だから、わいせつだけどわいせつ物ではない、というものの扱いは大変慎重になる必要があるし、誰かひとりがそう見えると騒いだくらいで揺らいだりするものではないのでそういうもの公衆の面前に晒すんじゃねーよクソって思ってしまった人はお気の毒様なんだけどさ。

ただ、何度も言うように、何が猥褻かというのは社会の要請によって決められる部分があるので、ひと目に触れることが多ければ多いほど、ジャッジの頻度は上がる。頻度が上がるとどこかで要請になるし、その要請を取り上げるかどうかはそれが真に猥褻かどうかではなく、その要請を取り上げることによって政治家になんらかのプラスがあるかどうかで判断されることも多々あるので、禁止されていないから堂々とすべき、というのは少し戦略としては間違っていて、配慮してますよ、という「態度」が示されているかどうかは結構重要な事だと思うのだよね。

逆に言うと、わいせつ警察な感じな人がその配慮の内側にわざわざ突っ込んでいって何かをしようとしているんだとしたらそれは筋違い極まりないのでいわゆる運動する人の行動規範がそこの閾値を超えているかどうかは結構な問題ではありますね。

こういう、いわゆる表現の自由に対して例外的に設定されている制限に対する議論は表現の自由そのものの原則論じゃダメで、制限の範囲が容易に変更可能(実際に容易かどうかは別として、正規ルートがあるという意味で)というところを踏まえて考えないとダメですよね。

萌え絵は世間に受け入れられているがオタク文脈からは自由でない

続き的なエントリ。

もはや萌え(あるいは萌え絵)が世間に受け入れられていない、という人は少数派なんじゃないかと思います。ただ、現状において萌え絵はオタク文化、文脈からはまだ自由にはなっていないレベル感ですよね。

実際のところこれは結構難しい問題で、例えば宗教画だ春画だなんだというものはある種最強であるアート文脈で解釈されるという地位を築きましたが、今のところ萌えはそうではない。これの難しいところって、ダイレクトにエロと繋がっていた過去はともかくとして、もはやそういう場面以外でも大量に使われているにも関わらず、まずエロが想起されるというギャップがあるという部分。こればっかりはド短期ではどうにもならない問題であり、物量で薄めていくしかない問題でもあり、そのためには記号的なものを付与することにより強く文脈を意識させるようなものは極力存在する場所を分けていかなければならない問題であり、換言すると到達地点がエロではない萌えというのを確固たる分野として確立するしかないのではないかと思ったりするんだけど、それって萌えなのかという究極の問題にぶち当たるのではないかと思ったりもするわけですね。

つまるところ、萌えというのは強く文脈を意識した分野の表現技法であり、そこから自由になるためには過去の遺物になるしかないのではないか、というようにも思うんですね(そして、完全にアート文脈で解釈されているアレなものは全てネタ文脈以外では現在真面目に創作物としては取り組まれないものがほとんどでしょう)。

今を生きる文化というのはそういうものなんじゃないかな?