そもそもの話として「文化の盗用」という概念がしっくりこないのは、その事例が「自分がオリジナルだと主張する」「内容を捻じ曲げでこれこそその文化だと主張する」とかではないことが多いからなんだよなあ。
それ以外のもので揉める要素があるのはその「文化」と言われているのが実際には文化ではなく「象徴」を示している場合だよね。例えば、紋章やチェックの柄、旗とか。
むしろ、文化そのものは侵略性を持つもので、「他国の文化に侵略された」という文句こそあれ、文化が広がったことに文句を言う必要はないと思うんだよなあ。だからそういうのは「歪んだ」「自分の物だと不当に主張された」以外ではやっぱり揉めるべきではない(象徴の話は別よ)。
やはり耐えがたいので、ひとこと書きます。
— KAMEI Nobutaka (@jinrui_nikki) 2020年7月28日
手話という言語を、聞こえる人たちのおもちゃにしてはならない。
学ぶ児童たちを批判しませんが、導入を企画し、美談として報道する聞こえる人たちの意識を問いたい
手話を学ぼう‼コロナで無言の給食時間に 大分の小学校 毎日新聞 https://t.co/wYrYBN06r1
こういう話もそうで、これが仮に問題になるとしたら耳が聞こえる人による新しい手話が生み出され、それが耳が聞こえないと成立しないものになって…とか、タモリの話す中国語風デタラメ語みたいな手話が蔓延するとか、そういうことに対する危惧であれば正当性はあると思うんだけど、手話そのものが「耳が聞こえる人のおもちゃ」になるという危惧はそもそも前提がおかしいと思うんだよなあ。
それを文化の盗用だからダメとするなら日本語話者が外国語だけで喋ってみよう、という試みすらも文化の盗用になるし、そんな馬鹿なことを言うやつはいないだろう。
おもちゃになることすら、本来は肯定的に捉えるべきことだと思うんだよね。こういうことを拒むのはコミュニケーションの断絶を図るような要素が強くなってしまう。手話の話者は耳が聞こえる人と手話でコミュニケーションを取るべきではない、あるいは正式な通訳の人としかそうすべきではない、なんていう世界が正しいのであればこれでも良いのかもしれないけどね。隠れ里かよ。