ジャーナリストってのは単にそう名乗れば出来るというものではない難しい職業だと思う。僕はジャーナリズムを専門的に学んだことはないので本質的なところが見えてないかもしれないけれども、少なくともアナウンサーを辞めてジャーナリストと名乗っている某とか某とかがジャーナリズムを体現しているようには見えない。
ジャーナリズムの守るべき一線とは、事実を伝えることと偏向していない(それ自体は難しいけれども、偏向していることで過度に推論を歪めない)ことなのではないかと思っているのだけど、果たしてこれはどうか。
togetter.com
ここでも言及されているけど、リンク先にあるPDF中のコメント「たとえば政策記事を担当した記者が政策作成者に聞きますか?学者の思い上がりです。学者だから研究者だから見せて当たり前というのは思い上がり。ジャーナリズムはしちゃいけないことです。ジャーナリズムの自殺です。」という部分についてはもはやなんと言ってよいやらという思いしかない。続く部分が結構すごい。「金出して新聞一面買って自分の言いたいことを書けばいいんですよ。1000万出せば新聞一面空けてもらえますから。」
この研究ではこのコメントを「報道者が抱く強い倫理意識・使命感を感じる言葉」「第三者としての立場で書いていることを強調」と捉えているのだけど、本当にそうなのか。そもそも「取材して記事を書く」ことと「政策記事を書く」ことを同一に考えて良いのだろうか。取材先のコメントが他の客観的事実から考えると疑わしい、などであればともかく、取材した結果を理解できなかったり、誤解してしまうことを事実を伝えるべきジャーナリストとして恐れはしないのだろうか。
実のところ、こういったジャーナリストの倫理というのは肯定すべき部分だと僕は思っている。だけど、物事には柔軟性が必要で、単に取材してその内容を事実として書くのであれば、取材先のチェックを受けることは検閲でも何でもない(事実の伝え方を強固にするための努力にすぎない)。一方で、疑わしいことに対する取材の結果を先方に見せて訂正されるというのは確かにおかしなことになるだろう。であるならば、ジャーナリズムとしての形式の罠は「チェックすなわち検閲である」と考える姿勢にあるし、「どうせ正確なことを書くことが出来ないのだからチェックしなくていいや」という怠惰にあるのだろう。これがすなわちジャーナリズムの自殺というやつではないか。
実際の問題として、ジャーナリズムは事実を推測することがある。これが意図的なものかどうかは場合によるけれども、証拠と思われることを積み上げ社会の隠された問題を糾弾するようなジャーナリズムの仕事には恐れ入るしかないことも多い一方で、ろくに検証もしない当事者の発言だけを鵜呑みにしたクソみたいな仕事も存在する。「事実」の取材に行くというのは、この前者のような仕事を成し遂げた別のジャンルの人間を飲み込みに行く仕事であるはず。であるならば、内容のチェックをしてもらうことがなぜジャーナリズムの自殺になるのか。
ジャーナリズムとは、自分の理解できないことを理解しないまま伝えたいように書く、ということではないのだと思うのだが。