novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

新たな医療情報サイトに「一応」期待しておく

www.buzzfeed.com

そもそも、Welqがなぜ失敗したのかというと、「稼ぐ」ためにはクソ記事量産するしかなかった、ということだったと理解している。なので、こういった試みは単独で収益を上げるためのものになってしまうと非常に難しいと思うわけ。もっとも、唯一無二のサイトということになれば収益も上がるだろうけど、一方で某グルメサイトのように金の匂いが強くなるとバイアスがかかり始めるのも世の常であり、本来であれば税金でもなんでも投入して良いからお金を目的としない形でやらなければならない部分ではないかとも思う。

BuzzFeedって別にそこまで超信頼度高いメディアってわけではなく(もっとも、既存のメディアが適当に掲載する医療情報が大変なクソであることを勘案するとマシである可能性は高いが)、所詮は1企業というふうにみなければならないと思ってはいる。

彼らが他のメディアにツッコミビリティが高いのは評価するので、われわれも彼らを評価せねばなるまいと思う。幸いなことに、間違ったことについて訂正をすることを厭わない、という点がBuzzFeed Japanの美点としてあげられるのは大きい。

ジャズ=逸脱、ではないよね

殴ったことの是非はここでは論じない。

k-yahata.hatenablog.com

これは「ちょっとぐらい人と違っててもいいんだよ」といったレベルではなく「逸脱しなければジャズじゃない」といったほとんど強制に近いものだと考えて構いません。

という部分もあるよね、という程度の話なので完全に主語が大きい。むしろ、逸脱とは正反対な理論で裏付けのあるフレーズ感をもった演奏のほうが多いんじゃないかなあ。フリージャズなんかは話がちょっと違うけど、あえて「フリー」ジャズとうたっている事自体がジャズとは何かを端的に示しているよね。

ジャズが面白いのは、この<逸脱>が単なる精神論ではなく、音楽的手法として存在していることです。

ほんと?

例えば「アウト」という技法がそれです。

「アウト」とは、コードにない音(外れた音、指示されていない音)をわざと使って独特の浮遊感や緊迫感を出すジャズの必須テクニックです。

アウトって、そんな単純な話じゃなくて、きっちりとコードを踏まえた演奏をしている上で、コードやスケールを「拡張」するかのように演奏しないと単なる無秩序、合わない音でかっこ悪いんだよね。だから、アウトにもセオリーはあるし、一般的なセオリーから外れていても、なんらかの美意識の元に組み立てられるもので、はずれりゃいいってもんじゃないよね。だから

メロディやハーモニーにおける「ジャズっぽさ」というものはこの「アウト」の産物であり、<逸脱>の成果です。

じゃない。ジャズっぽさは一切アウトしなくても感じられるわけで。

リズムにおいてもジャズでは少し遅らせたり揺らしたりし、正しいリズムから<逸脱>することがよしとされます(これは目指す演奏によって違ってきますが)。

ってのもおかしくて、そもそも「正しいリズム」なんてものが何言ってるのかわからないし、レイド・バックは逸脱ではないわけで。

ちなみに、日本人のジャズが面白くないというのは日本人含め世界の共通認識ですが、なぜかというと<逸脱>したがらないからです。

なんてことはなくて、日本人のジャズも面白いし、アウトする程度なら当たり前にするよね。そこはあまり問題じゃない。日本人のジャズが面白くないってのは面白い人を聞いてないってだけなんじゃない?というか、ここで「お約束を守らずわがままし放題で他の奏者の怒りを買う」なんてのは外国でもめったにないし、あったとしてもヤクでも決めてんじゃないって話だし、マイルスなら多分その場でビークにするよね。

ステレオタイプから自由になり、個性を見失う

男らしさ女らしさ的なものは多分に動物的な価値観ではあるけれども、XX人はどうたらというのも多分に文化的な価値観であるけれども、それはひとりひとりの人間を表したものではないし、それに縛られるべきではないというのが現代の価値観の根本ではあるよね。

一方で、多様性と言いつつ、そういう古い価値観は多様性の一つとは認められないということはよくある。三つ子の魂百までってわけじゃないけど、昭和の古い価値観のもと子供時代を過ごした僕らの年代は、平成のはじめの価値観の転換に随分翻弄されてきたよな、とは思う。

社会って、「自分の有り様」を押し付けるには強大だ。だって自分以外は全員自分以外なんだよ。だから、文化や風習という名の「誰かの意見に基づく伝統」が自分以外自分じゃないという状況を打破し、社会で生きていく重さを軽減させてきたのかもしれない。そこで決定的にその価値観を受け入れられない人は、その社会から逃げ出す、という選択肢があったんだと思うし、その選択を取り得ない(取ること自体が自己矛盾する場合もあるだろう)ことが最大の抑圧。

さて、インターネットの時代になって、今何が起きているのかって思うと、いわゆるステレオタイプのような「ある価値観」が否定されて、どこにも逃げ場がない状態になっているのではないかなあ。未だにそういうことを意に介していない(自分たちがいわゆるステレオタイプの価値観を持っていることすら気にしていない)人だけが逆説的だけど、自由なんだよね。そういう人たちが自分たちの価値観を他人に押し付けていればともかく、そうではない場合が多いからなおさら正しくあろうとしている人に心労が積もっていく。自分の価値観が何かの「良くないステレオタイプ」に近ければ近いほど、それを公言することもできず、自分を矯正するハメになる。多様性とはなんだったのか。

CMのステレオタイプ的な表現が問題になるのは、それが「価値観の押しつけ」だから、という話にはそれなりな妥当性がある。世界が一つに近づくにつれ、「お前に言ってんじゃない」が通用しなくなる。本当はそうじゃないんだよね。「この価値観に乗っかる人にいい話がありますよ」というのが本当はCMが目的にしていることなんだけれども。

僕たちはもっと鈍感に生きたほうが良いのだろうかね。