novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

セクハラの許される時

端的にいって、「デメリットよりメリットが大きい」ときに、社会的不正義は時として見逃され、あるいは許容されるんだよね。
セクハラの件について言えばまさしくそれが表出していて、いやらしい話になっている。

かつての、特にある種の業界における「クローズド」な空間においてはセクハラというのは正義ですらあった、というのはわかる。metooの話だって結局のところ、オープンにすることのハードルとリスクが下がってきたことがいわゆる「デメリット」を減少させた結果の出来事ではあり、早い話が、「正義を遂行するコストが下がった」ということにほかならないよね。だからといって、その正義をなす主体が絶対的正義ではありえない以上、その正義ではなく、主体についても「正義の的になるコストが下がった」とも言える。

つまり、「石を投げるのは簡単だが罪を犯したことのないものだけしか投げられないリスクは高まっている」というのが今のウェブの状況とも言える。ここでの問題は「罪」には等級があるってことだけどね。

「あいつは嫌いだが告発は支持する」というのはその点を踏まえた話ではあって、つまりそれは、より巨悪を糾弾するためなら多少は目をつむってやる(ただし許してはいない)という、至極当たり前の思考様式の一つでしかない。もっというと、構造的には冒頭の「デメリットよりメリットが大きい」という構図にほかならない。すなわち、こういった留保付きの正義の執行においては根本的な構造が悪徳と変わらないという皮肉的な構図があるんだよね。そういう問題を多少なりとも軽減するのが過去のあやまちを悔いる行為であり、決して開き直ることではないんだけどねえ。この構造を維持し続ける限り、行き着く先は「状況によってはセクハラは許される」という世界の保存でしかないと思うんだけど。

市場と価値と、プレミア価格

チケット転売にしても、獺祭のプレミア価格にしても、純粋な市場原理(というと経済の人に怒られそうな気がするが)において、価格は市場が決める!と言い切ってしまうのはありなのかもしれないけど、その市場において、本当の価値が得られているか、ということは特に空間的な距離も時間的な距離も縮まっている昨今においては考えなければならないことだと思うんだよね。特に獺祭の件については純粋に情報の価値が一部不公正な市場の価格に反映されているだけな気がするから、ああいったアナウンスが情報の価値を下げた結果として、適正な値段に変わっていく、というのはあるかもしれない。そういう意味では、あの意見広告ですら市場原理の一つの機能である、と考えても良いと思っているのだが。

不公正な市場を放置するというのは消費者に不利益を与えた結果、市場の成長を抑制し一部の収奪のみが機能する、ということにもなりかねない気がするが、そのあたり気がするとしか言えないのが辛いところではある。

ある特性を褒めることはその逆を貶めているわけではない

「あら、あなたはちゃんとお手伝いしていて偉いわね、それに引きかえ…」

みたいな話はよくあるんですが、だからといって何かの特性や行動を褒めることが必ずしもそれをやらない人、持たない人を貶めているわけではないんだよね。ところが、ポリコレ的な文脈の中で「差別だ」みたいに批判されることがままありますよね。

こういう話を突き詰めていくと、規範とか、倫理とかも全く意味をなさない。人間としてあるべき姿を思い描くこともできないよね。

「あなたは差別をしなくて偉いわね、それに引きかえ…」

であれば「差別者を貶めているのか!」みたいな批判はナンセンスだよね。だからといって「これは差別的な文章だ」というのもなんかおかしい。

人間とはどうあるべきという「指針」があるとして、そこから外れた生き方を「人間ではない」と否定することも意味がない。だからといって、指針自体が意味を持たないわけではないよね。ただ、それが「一つのあり方であり、そこから外れたことを否定しない」と考えれば良いだけのはず。多様化ってのはそういった考え方をベースにしていて、ある種の「正しさ」を規定すること自体を否定しているわけではないと僕は思っているんだけど。