novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

先のエントリについて

一応弁明しておくと、2行目の

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はハイフン5個です。はてな記法が悪い。

じゃなくて。

あのエントリが誰に向けたものか、という問題は確実にあって、そうじゃない人が読んだときにああいう受け取られ方をするのはまあ僕の文章そこまでうまくないから勘弁な、という話ではあるんだけど。

われわれ、を主語が大きいと冒頭であえてセルフツッコミしているのはまずもってそういうことで、多分読む人が読んだらこの「われわれ」は自明な「われわれ」ではあるんだけど、流石にそこまでは書けないよね。
同様に、あそこでお前らみんなそうしろよ、といっているのは単に自らの信念に従って行動しろよってことだけだし、それすらも怖がってやらないんだったらウェブで発言するのはコワイデスネ、ということだけなことをなんであそこまでぐだぐだと自分語りを含めて書かなければならないかというとそれがある種の追悼であるから(これもアイマイだね)。

でも頂いたブコメでいろんなことはわかった(といっても予想通り)ので、世の中何も変わらないのだな、とは思ったんですね。僕自身ははてブの付け方は少なくとも変わらないけど、変えよう、とはなりました。

まあ、あのエントリを読んで(ごく一部の、あのエントリのターゲットの人を除いて)僕が何かを迫っているように感じたとしたら、もう一度自分のブコメなどを見つめ直してみたほうが良いのではないでしょうか。これだけははっきりと書きましたが、正しさは対立するんですよ。

われわれは反省すべきか、萎縮すべきか、Hagexの遺志を継ぐべきか

これは実質的にHagex氏の追悼エントリです。

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「われわれ」とは主語の大きい話であるが、僕が本件に対して最終的に言いたいことは、「信念に従って生きよ」ということである。信念に基づいた正義はしかし一つに決定することができるたぐいのものではない。だから何が正しいかを決定することにより、社会のあり方が規定され、規制されるような、あるべき姿とは正反対のものになってしまうことを恐れる。正しさとは常に変容するものであり、痛みなしの変容はありえない。痛みを恐れるばかりに無難であり続けることを全員が選ぶことが最も恐ろしい。

正義とは、必ずしも紳士的なものではない。むしろ、暴力的なものだ、と捉える人のほうが多いかもしれない。自分の信念に基づき正しさを提示することは他人の信念と当然ながら対立する。正義とは立場や情勢によって変わる、実に脆弱な概念でしかなくて、正しさはロジカルに担保されない。不正を憎む人と、貧困を憎む人は時として同じ敵を攻撃するが、お互いが敵同士になることもある。どちらも社会を正したい、という信念は変わらないとしても、取り扱う問題が異なることで対立はするのだ。

Hagex氏の抱えている問題意識について大変勝手ながら自分に近しいものだと感じていた。彼は「楽して稼ぐ」人たちや「信者から稼ぐ」みたいな人を揶揄し、否定している、著名人に噛み付く人のように見えていたのではないかと思うし、彼をネットリンチの親玉だとか、ゲスな記事を書く人であるとか、そういった評価をされていることはわかっている。事実関係で言えば、それは正しい。彼が槍玉に挙げた人間を尻馬にのって叩くネット民は多数存在する。僕も同時多発的な批判の一翼を担っていたことは多々ある。もちろん、意識的には「ネットリンチ」ではないのだが、これは当事者意識の問題でもあるので、そうでない、とこちら側からは言い切ることができない。
しかしながら、僕から見た彼の問題意識は直接的な批判を超えたところにあったと思っている。それは、そういった人々に食い物にされている、されかかっている人たちへの警告であり、救いの手としての一つのアプローチだったのではないかと。やり方が正しかったかどうかを評価することは難しいのではないかと思う。しかし、その目的意識に僕は共感を覚えていたのだ。これは詐欺に近い社会的な行動に対する警告であったり、インフルエンサーとされている人間がいたずらに不特定の人間を傷つけることに対するクレームであり、もちろんそれは諸刃の剣であってお前も他人を攻撃しているじゃないか、といわれることは覚悟の上であったと思う。信念に従って生きる、というのはそういうものだろう。一方で、僕は数年前までは主体的に似たようなことを行っていた自覚はあるものの、仕事が忙しくなり、Hagex氏が相変わらず行動的であることをいいことに、尻馬に乗るだけの活動に縮小していたことは否めない。もっともこれには別の理由もあり、高知のトマトの人が僕の後輩いわく「誰々ちゃんの旦那」。もうだめだと思った。リアルの人間関係というのは、重い。40を過ぎ、会社での責任も増え、自分の役割はここではもう大してないのだな、と勝手に整理をしていた。
何れにせよ、Hagex氏が去り、彼の胸の内を明らかにし、照らし合わせる機会を永遠に失ったことは僕にとっては痛恨事であり、彼がリアルで色んな人に会い始めた段階で会うためのアクションを起こさなかったことを今更ながら後悔している。

事が起き、ネットリンチの親玉だとか、ゲスな記事を書く人であるとかそういった評価を「ネットリンチの巣窟」であるところのはてなブックマークで「安全圏から」行う人がいるという事実に僕はひっくり返ったわけで。ええと、強度はともかく、やっていること一緒だよね…荒らしは無視が一番とか、結局の所、自分に累が及ばないことだけが重要であると。仮にそうだとして一番襲われない可能性が高いのは何一つ世間に公表しないこと、だと思うのだ。しかし、強度はともかく、Hagexとその仲間たち(あえてこう言うけど)を批判している人たちが「刺されてもおかしくない」行動を平気でとる心理は僕にはよくわからない。

今回の件ではっきりと自覚したこととして、「PVを上げたくないから2階からブクマ」といういかにも「勢力的」な行動は慎むべきだ、ということがある。はてブにおいて唯一の方法的な「リンチ」に近いのはこれかな、と。今後、僕の発言は「刺される覚悟を持ったもの」になる。いや、みんなもはっきりわかったはずだ。ネットでは何を言っても刺させる可能性がある、ということに。前のエントリで書いたことの繰り返しになるけれども、これはネットに限った話ではない。ネットとリアルの違いは到達性の違いだ。タレントとか、政治家とか、そういった人たちはネット時代より前からそうだった、というだけだ(とはいえ、「オフレコ」の話がこんなにボロボロ出てくるネットの伝達性は怖いと思っているだろうが)。

ネットで発言することのハードルは上がったのだろうか。個人的には変わらないと思っているのだけれど、はてブをなくすべきとか、そういった意見が出てくる背景にはコミュニケーションにおける構造的な問題が指摘されているようにも思える。でも、僕自身はそこで諦める必要はないと考えている。健全性などクソくらえだ。我々にとって大事なことはただ冷静であることだし、きちんと間違いを撤回することができることだ。

我々は萎縮すべきではないし、Hagex氏の遺志を継ぐべきだろう。少なくとも、僕自身は自分が正しいと信じたことに遠慮することはやめる。刺される覚悟というのは何も特別なことではなくて、ウェブで発言をするときの基本動作に過ぎない。もちろんそれは過激な発言をするという宣言ではないし、私怨から他人を攻撃するということでもない。ただ、自分の信念に従った結果として別の信念と衝突することは避け得ない。

今回のことで何かを書くことを減らそう、と考えている人はもう一度考え直してほしい。では、今まで書いてきたことはまったくもって世に発信する必要がないものだったのだろうか。もし少しでもそうではないと思うのであれば、この事件をもって何かをやめるなんてことには全く意味がない。少なくとも僕は書くことをやめることはないし、今回の事件で変わるものがあるとしたら、Hagex氏が成し遂げられなかったことに少しでも近づくために、もう少し真面目に書こうと決意したことだけだ。もっとも、僕一人の力だけでは彼に遠く及ばない。だから、他のみんなにも書くことをやめてほしくないのだ。

Hagex氏の訃報とネットへの向き合い方について

なんというか言葉が出ない。氏への言及は以下各位のエントリでおおよそ言い尽くされていると思うので、割愛する。何かが書ける気はしない。

やまもといちろう 公式ブログ - Hagexに王様はいなかった - Powered by LINE
hagex氏のこと - Everything you've ever Dreamed
「ネットウォッチャー」Hagex氏の訃報に際して | @raf00


一つだけコメントしておくと、氏のスタンスは不正、理不尽による犠牲について、少なからずやられる方への迂闊さなどに対する厳しい目線がありつつも、騙したりすることへの明確な否定に立っているという点について大変共感していた。

さて、僕が考えるべきなのはid:zaikabouさんによるこのエントリについてだ。感情の整理がつかないのでこのエントリの大部分は単なるポエムである。例によって事実関係については主観以外のエビデンスはない。
zaikabou.hatenablog.com

古式ゆかしいネット作法、というのははてなにおけるモヒカンとはなにか、という問題にも繋がる話だが、いずれにしても僕の知る限り、ネット黎明期(ここでいう黎明期とはインターネットそのもののことではなく、世紀をまたぐタイミングで起きた爆発的な広がりのこと)で発生した「事件」についてはS県月宮だってそうだけどさ、現実に地続きでなかったことなんてあまりない。僕の所属した最初のいわゆる普通の友達以外のコミュニティはパソコン通信(後に色んな意味で新聞沙汰になった人のBBSにも所属していたことがある)だし、ネット時代で友人が増えたのは「ゲーセン(音ゲー)を通してつながったリアル&ネット友達本名不明」だ。そういった場において、向こう側の顔が見えないことはない。一方で、顔が見えるからと言って常に仲良くするなんてことはなかった。ケンカ(殴り合いという意味ではない)は日常茶飯事だったし、誰が誰と別れ話でもめてる、なんてことはよく聞いた。
そうでなくても(僕が後年聞いたところによる)「界隈」ではむしろネットが従であり、トラブルは常に現実で起きていた。そして、現実のほうがもっともっと殺伐としていたと思う。ただ、そういった問題は基本的には知り合いの中でのトラブルに閉じた話である。

初期のネットユーザーがそれでも平然として殺伐とし続けられていたのはそういったことにリアルで慣れていたということももちろんあるけれども、逆にそういったところとは切り離された場としてネットを位置づけることもできたからだ。自分をいかに自分自身のコントロール下におくのか、ということが唯一の問題でもあった。

そのときに比べて、今のネットとリアルはどうつながっているのだろうか。ネットウォッチの業が深いのは、ネットがなければ可視化されなかったであろう人間のダメさ加減をあげつらうことであるけれども、これは現実との地続きという点では私小説家が書く知り合いの話に近しい。その程度であろう。世の中の創作物(ノンフィクション、エッセイ、ことによると新聞記事ですら)における、揶揄やあげつらいの多さは特にネットウォッチ的な行為がネット特有のものではないことを物語っている。それは必ずしも悪意によるものではない。

思うに、承認欲求という言葉が一般的になり始めた時期に、そういった話とは全く別個に、ネットの闇は深まっていったのではないか、と思っている。もっとも、その前兆は我々ネット老人では計り知れないところ(プロフ等)で既に発生していて、SNSの一般化によって爆発したんだと思うけれども。ともあれ、クソみたいな罵倒論客(自分だって相手から見たらそう見えるところはあるだろうが)とのやり取りがすっかり止んでしまった現在において、そういったフラストレーションが可視化されることは直接的にはなかったりする。名誉毀損だヘイトスピーチだなんて話はこういうことにおいてはバカバカしい限りだが、それがバカバカしいという文脈が共有できなくなっているので仕方がない。

バカバカしい、ということについて向き合うことをしなかったのが、今回の事件の遠因ではないか、と、今になっては思う。

僕自身、はてなーとしての友人の何人かには直接あったことがあるけれども、ブロガーとしての肩書を元になにかの活動を行う(例えば本を出す)というようなことについては僕自身はあまり積極的に考えたことはない。同じ立場の人が企業サイトに寄稿したりする。これは誰かの承認欲求を刺激しやしないか、なんてことは考えたりもする。イベントに参加者としてこっそり参加することはあるだろうけど、登壇するなんてのはもってのほかだ…そもそもその手のイベントが成立するためには切込隊長がやまもといちろうになるくらいの覚悟が必要だと思っていた。

しかしね、その危うさが、こんなダイレクトな形で問題を起こすなんて、戦慄するしかないのですよ。

自分は業を背負うということが重荷だった結果として、ネットからリアルに出ていく活動はあまりやらなかった(MIAUに軽く参加した時点で難しさを感じたりもした)。それでも業は背負っているし、その業は必ずしも筋が通ったものではない。低能先生(誤解を招くといけないが、「低能」とは彼の口癖というかコメント癖でしかない)自身への言及は行ったことがないがそれでも彼が憎悪するたぐいのブコメが見つかった暁には漏れなく強度の強い罵倒を受けていた(その事実は彼の罵倒はアカウントが消えることによってほぼ他人に可視化されることがないため他人には見えないだろう。メールの履歴を漁ればはてなからの通知がいくらでも残っている。「集団リンチ好きのゴミクズが言うと説得力あるなwww 早く死ねよ」大体こんな感じだ。

ネットに何かを書くってだけで業を背負う、という考え方はおよそ一般にはなじまないと思う。仮に自分は正しいことを書いていたとしても、例えばそれが結婚の喜びを書いただけで結婚できない人の業を背負うというのが「ネットというもの」なのである。いや、それは社会というもの、ではあり、同調圧力によって「守られていた」だけのものであり、ネットとは同調圧力に「反抗することが可能であるもの」であり、業が呼び寄せる刃が増えただけのことであって、それは現実に刺さりうる。それだけのことだ。