この話は、「一人ひとりの考え方は違う」という点で総括してしまってはダメなんだと思っている。
続)あと「〇〇(女性、フェミニズム、人文科学や社会学、非居住者etc)に属してるなら暴れてる身内をどうにかしろよ、何なら代わりに詫びろよ」系の言説も本当に嫌だ。「親の顔が見たい」から連綿と続くアレだよ。無関係だろ。個人だろ。自由な意見を個別に聞くということに社会が慣れてなさすぎる。
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) October 10, 2018
こういうことを言いたくなる気持ちはとてもわかる。ただ、それは「便利な看板」としてそのカテゴリーに所属していることを選んでしまった自分自身の問題である、と捉えたほうが良いのではないかと思ったりもする。フェミニストについてのここ最近の問題に対して感じるのは、そういうところだ。あれ、そんなに違うことを強調するのであれば、そもそもその看板自体間違ってない?って疑問ね。
以下、「xxx」という言葉を使うけど、これは同種の問題にさらされているカテゴリーについては全て該当する。
およそ、この手の「カテゴリ違うじゃん」問題は外側から貼られるレッテルについてはよくある。だから「これだからxxxは」みたいな主語の大きな批判について「いやいやそれxxx全体の問題じゃないし」と抵抗するのはわかる。ただ、その批判されている対象が「xxxとしての主張」を声高にうたっているとき、それをxxxであると自認している人が放置してよいのかどうか、は重大な問題ではあると思う。特に、客観的に定義し辛いxxxである場合は。ある程度、定義が固まっていて、「自称xxx」がそれはxxxじゃねーよ、とxxx内外から分かる場合は別に良いんだけどね。
で、最悪なのは「xxxにもいろいろいる」パターンで、じゃあそのxxxという看板での批判は甘んじて受けるの?というと「アレはアレ」とか言っちゃう場合だと思ってる。そんなことを言うくらいなら自分自身のxxxという看板を外せばよい。
なので、「便利だからxxxと名乗る」ということで引き受けるべきコストは引き受けないと看板を名乗る意味ないんですよ。逆に言うと、その看板が(様々な理由で)明確に定義をせずその看板に人を集めるような活動をしてきたんだとしたら、それはその看板の問題がわかりやすく噴出した、というだけに過ぎないとも思うんですよね。
総括すると、xxxというカテゴリー「としての」(誤った)主張をしている人に対して、xxxというカテゴリーに属していると自認している人が「それは自分とは違うxxxだから」と言ってしまうことはxxxという看板を掲げている意味がない、ということですね。
「何派xxx」ってくらいまで明確に細分化されているのであれば、それはそれで外から区別できる場合はあるけどね。