novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

所属の看板と個人の差異の問題について

この話は、「一人ひとりの考え方は違う」という点で総括してしまってはダメなんだと思っている。

こういうことを言いたくなる気持ちはとてもわかる。ただ、それは「便利な看板」としてそのカテゴリーに所属していることを選んでしまった自分自身の問題である、と捉えたほうが良いのではないかと思ったりもする。フェミニストについてのここ最近の問題に対して感じるのは、そういうところだ。あれ、そんなに違うことを強調するのであれば、そもそもその看板自体間違ってない?って疑問ね。

以下、「xxx」という言葉を使うけど、これは同種の問題にさらされているカテゴリーについては全て該当する。

およそ、この手の「カテゴリ違うじゃん」問題は外側から貼られるレッテルについてはよくある。だから「これだからxxxは」みたいな主語の大きな批判について「いやいやそれxxx全体の問題じゃないし」と抵抗するのはわかる。ただ、その批判されている対象が「xxxとしての主張」を声高にうたっているとき、それをxxxであると自認している人が放置してよいのかどうか、は重大な問題ではあると思う。特に、客観的に定義し辛いxxxである場合は。ある程度、定義が固まっていて、「自称xxx」がそれはxxxじゃねーよ、とxxx内外から分かる場合は別に良いんだけどね。

で、最悪なのは「xxxにもいろいろいる」パターンで、じゃあそのxxxという看板での批判は甘んじて受けるの?というと「アレはアレ」とか言っちゃう場合だと思ってる。そんなことを言うくらいなら自分自身のxxxという看板を外せばよい。

なので、「便利だからxxxと名乗る」ということで引き受けるべきコストは引き受けないと看板を名乗る意味ないんですよ。逆に言うと、その看板が(様々な理由で)明確に定義をせずその看板に人を集めるような活動をしてきたんだとしたら、それはその看板の問題がわかりやすく噴出した、というだけに過ぎないとも思うんですよね。

総括すると、xxxというカテゴリー「としての」(誤った)主張をしている人に対して、xxxというカテゴリーに属していると自認している人が「それは自分とは違うxxxだから」と言ってしまうことはxxxという看板を掲げている意味がない、ということですね。

「何派xxx」ってくらいまで明確に細分化されているのであれば、それはそれで外から区別できる場合はあるけどね。

「公の感覚」は必要だと思うけどさ

この話だけど。

「公の感覚」をめぐる議論(「キズナアイ」騒動などからの派生) - Togetter

以降、「的なもの」というのは理解が曖昧なことについて使っているので間違ってたらごめん。

まあ、「公」ってのは極言すれば「法律」なんだと思うんだよね。もちろん、その上に憲法があって、それが担保する世界もあるんだけど、それを絶対正義にしてしまうと公の空間というものは実質的に成立しなくなる(ようは、単なる自由にアクセス可能な私的空間のつながりにしかならない)ので、原則レベルではそうだと思う。なので、といいつつ、もう少し上位(だったらいいなあ)の概念としてのモラルみたいなものも当然あるよね。ただそれは誰かのお気持ちにより担保されるものではなく、ハーバーマス的な正当性の議論なくして成立し得ないのかなあとは思う。
問題は、実際の「公共圏」的なものは実はローカルではひとしきりの根拠を持っていて、それがウェブの中で文化的な衝突として表面化しているところなんだと思う。例えば出羽守だってその一つに過ぎないと思う。誰かがこう言っているから、を無条件で受け入れるのはそういった空間の無批判な合併であり、相手のいうところの本質をきちんと飲み込んでない限り、実はくっつけてはいない(ので、実態としては部分集合になっていしまっていて、そのことによる不利益は実は結構デカイと思う)。
ウェブで議論をするにしたって本来は「このサイトにおけるルール」からスタートしているはずだし、古典的なウェブにおいてはそのとおりに機能していた部分はあったと思う。Twitter(SNS)が議論に向かない、と未だに思っているのは、その点において機能する場でないからだ。

だからこの話は社会というよりはコミュニティーのルールの話だと思っているんだけど(依然として社会そのもののルールは法律が主だ)、それにしても、それが設置されている場はローカルコミュニティーじゃなくてインターネットという開かれた(≒公共性のある)場である、ということは忘れてはならないと思う。これは、「だからルールをリアル社会と全く同じにすべき」と言っているわけではなく、そういった場であることを忘れず、あり方を考えていこう、という話だ。

僕がちょいちょいウェブで発言することを「publishだ」と書いているのはそういう意識によるものではある。

8年前にこんなこと書いてるけど、根本的にはあまり変わってないな。
ウェブがコミュニケーションツールであるとの誤解がtwitterによって加速する - novtan別館

この話、換言するとこれかも。
「あなたはXX人の人に見物されています」 - novtan別館

「ただでなんとかして」に対する方策

二度と関わる必要のないクソ客の場合

「追加費用いただけないと一切対応できません。」

今後の案件で回収できる見込みのある上客の場合

「こういう条件だったらやってできなくもないですね(チラッチラッ」

本当は後者もやっちゃいけないんだけど、「貸しを作る」というのが重要な場合もある。もっとも、ただであろうが何であろうが「やる」ということは責任を引き受けるってことなので、口約束だけで完結させるのはリスク大きいので一筆…(だいたいここらで向こう側が唸り始める)


ところで、クソ客パターンの話ばかりする某社は素晴らしい会社のはずなのにクソ客とばかり仕事をしているのでしょうか。