novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

社会はあるかわからないことに備えることは苦手

「このプロジェクト、このままだと確実に炎上します!」「やってみないとわからないだろ!やれ!」

なんてことは日常茶飯事な世の中ですけどね、治水事業みたいなものにお金を使うって決断をする人は偉いと思うんですよ。昔の人は偉かったね、ということではありませんよ。昔の治水事業は「定期的に壊滅状態になる」という事実に対しての備えであって、あるかわからないことに備えていたわけではないので、社会的コンセンサスが得やすい(=利益に直結する)んですよ。しかもトップダウン。これで出来ないほうがおかしい(とまでは言えない事情があるところもあっただろうけど)。

現代においては、「住民の理解」という抵抗勢力を乗り越えてどう国家的事業をすることは年々難しくなっているように感じますね。だいたい、「夏は花火が見えます」なんて売り文句でマンション売った挙げ句住民から「火の粉が入ってくる」というクレームが入って花火が中止になるというとしまえんの事例をもってしても人というのは自分の利益に直結することには小さなことでも文句を言うくせに、社会の利益になっても自分にちょっとでも不都合があるとその利益は無視する、ということになっているので、ある程度の強制力がないと物事は動かない事が多いし、その強制力が巨大な災害であるというのは不幸極まりないですよね。

大震災のときもそうだったんだけど、そういう状況の中で、自己犠牲を厭わず尽力した人たちが批判されたりするというのはやっぱりちょっと違和感がある。もちろん、個々の人の判断が直接批判されたわけでは(あまり)なく、組織としてそれを求めたことが対象ではあるけど。

僕らの行動の一つ一つの積み重ねがいい結果を生んだり悪い結果を生んだり、というのはあると思うし、予期しない悪い事のトリガーを引いてしまったりもするわけだし、清く正しく生きていたところで社会が良くなるとは限らないし、社会ってのはそういうものだと思うけど、幸い、生きている人は反省をできるのだから、いろんなことを改善しながら生きていきたい。

「ほにゃらら(主に政治的な支持)を表現するジェスチャー」を勝手に作って色んな人を巻き込む人達ってなんなの?

3回回ってから垂直ジャンプして腕を振り回しながら着地、とかにすればいいのに、片目を隠すとかそういう一般的な行動の中で現れてしまうような動きに意味付けをするっていう人たちって一体何がしたいんでしょうね。こっそり支持とかそういうのはもう無理な時代なんですけどね。

あと、こういうのって簡単なものにすればするほど同調圧力が高まる(積極的な支持じゃなくてもそのくらいできるだろ、恥ずかしくないんだからみたいなの)可能性があるので、がっつりコミットしてないととてもじゃないけど実行に抵抗があるようなものにしておかないとダメだろ。

映画「ジョーカー」のネタバレ感想に見る社会の袋小路的ななにか

実際のところ、純粋に「バットマンの悪役であるところのジョーカーの映画」と考えたときの見方は銀河暗黒皇帝陛下のエントリに尽きるんだと思う。映画見てないけど。

globalhead.hatenadiary.com

また、エンタメとしての需要の仕方は、マシーナリーとも子氏の感想が正しいのではないか。映画見てないけど。

nlab.itmedia.co.jp

つまり、こういう雑(ネガティブな評価のつもりはない)な需要の仕方をするべき映画なんだと思う(だから、これまでのコミックにおけるバットマンとジョーカーの関係性をガッツリ追いかけていた人にとっては物足りなくて当然だし、それでもぐぐっとくるポイントが有る)。映画見てないけど。

であるにも関わらずですよ、この映画についての不穏な感想で埋め尽くされているようにも思える。これは、映画のせいじゃなくて、社会がそういうステージにいる結果として映画に無理やり投影されているのではないか、というように思えるんだよね。映画見てないけど。

現状の社会はちょっとしたきっかけで暴発することの連鎖で崩壊する危機を内在しながら、誤魔化し誤魔化しやってきているように見えるし、香港の件だってそういった部分の最も先鋭的な状況に過ぎないと思ったりもする。だからこの映画は実にタイムリーであり、結果的に本来描きたかった(あるいは描くべきだった、なのかな?何しろ映画見てないから)こととかけ離れた部分で共感されているのではないか、とも思える。

はい、人の道を踏み外しちゃいましたね。人生が不幸だからしょうがないよね、ちゃんちゃん、というストーリーをエンタメのネタとしてではなく社会問題として受容する人がたくさんいる社会ってのはやっぱりちょっと病気になっているんじゃないか。希望と絶望を飼いならすことを社会がサボっているとも言える。絶望だけを与えられる人がきっかけを持つと何が起きるかわからん、というのはそういう状況に関わらず普遍だとは思うけれどもね。