novtanの日常

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誤解や理解不能に対する向き合い方

この数日

natrom.hatenablog.com

に収束したやり取りを眺めていたんだけど、その中で誤解(これが真に誤解なのか穿った解釈なのかはわからんけどさ)である「過剰診断が8人」という理解に対して割と複数の人が「どうしてそうなるのかわからない」とコメントをしていて、それはそれで困ったことだなあ、と思ったのでこれを書いている。

過剰診断の話は概念がちと複雑で、組み合わせみたいな条件を飲み込めないで解釈をすると間違ってしまいがちというのが根本的な話としてあって、だから間違った話をする人が多いのだ、というのはこの界隈で頑張って啓蒙している人はよくご存知かと思うんだけど、だとしたら、その誤解のロジックをよく理解することが新たに誤解業界に参入する人を減らすための対策に繋がると良いんだよね。こういった問題にどの程度向き合うかは結構重要な課題とはいえ、「この説明でわからないなんて」と言って切断するのはあまり良いこととは思えない。とはいえ、もうFAQっぽい気もするけどね。

ITなんて仕事をやっていると「俺はITのことはわからないんだけどさ」というお客さんに話をする機会はどうしても多いし、そこで納得する説明をするのって難しいのは重々承知している。作成する資料を内部でレビューするときもされるときも「(俺にはわかるけど)なにが書いているかわからないよこれでは」というやり取りが飛び交っている。書かれていることがどう受け取られて、どう都合よく解釈されてしまうか、というのはさんざん実例を見てきているので厄介なお客さんほどガチガチの前提で固めた資料を持っていってろくに読まれずあとからクレームが来る。それは別に良いんだけどね、出るところに出たときのために書いているだけだから。
ともあれ、難癖をつけてくるお客さんのためにやっているのではなく、やっぱり正しく相互理解をして仕事をやりたいわけで、仕事で作る文章はここで書き飛ばしてるような文章とは違ってシンプルかつ端的に伝えたいことを伝える文章を頑張って書いていることが多いけどね。こういう場ではどうしてもくにゃくにゃとした文章を書きたいのだ(これは書きたい欲から出てきているものであり、趣味なんだからいいよね)。
まあ、仕事であれば最終的には達成したい目標が合ってやっていることだから、わざと穿った解釈をして押し通してくるのは特殊な事例ではある。目的がシステムによるxxじゃなくて、「俺の出世」とか「おぜぜを懐に」とかそういう担当者にあたってしまうとかね。でも幸いにそういう人と仕事をしたことはほぼないけれども。

アプリの運用保守をするということ

自社プロダクトでもない限り、大抵のシステムは「作る人」「運用保守をする人」を専門にする人たちに業務を委託することが大半だろう。

右も左もDXな昨今においては外注先におまかせではなく、自社が主導していかなければならない、と聞かされてうんざりしている会社もたくさんあるのでは?

ともあれ、業務システムというのは「作ったら終わり」で済むことは殆ど無いんですよね。

ところで、システムの「保守」というのは非常に重要な仕事なんですけど、結構やりたがらない会社が多いんですよ。多いんです。保守ってだけで楽しくないって思われることも多いんですよね。でもそれって保守案件ごとに全然違うんですよね。ずっとエンハンス(追加要件)の開発が続くことを保守案件としていることもあれば、自動化したらやることないじゃんみたいな定例運用をひたすらやっているのも保守案件なので…
あと、それを実行するためには「それなりにそのシステムについて有識者であり」「個人でそれなりに判断して動ける」人を求められるんですけど、そういう人って開発案件で何人も率いて仕事ができる人=保守に取られると会社としての戦力ダウン、でも保守だから安くしてね、と言われるわけです。これ、win-loseみたいな関係ですよね。

ということもあり、「保守はやりません!」って高らかに謳っている会社、結構あるんですよね…

で、そういう会社が開発案件でのこのこやってきて既存のシステム理解が足りなくて事故ったのを保守チームの出してきた資料が云々とか言い始めるので腹が立つわけですね。

まあ、保守って難しいんですよ実際。

おまけに昨今は勝手にブラウザはバージョンアップするし、OSのアップデートは下位互換性が勝手になくなるし、そろそろクライアントがGAFAから間接的に税金取られてることに気づいちゃいそうですね。いや、僕らもそうなんだfが…
そういう、本質的じゃない部分(アプリの価値に関係ない部分)に保守費用を掛けるのって正直金の無駄ですよね。セキュリティ対策?やってもいいけどnot for meの対策のためになぜ保守費用を掛けなきゃいけないの?って。

とはいえですよ、そうやって世の中が変わっていくことに追随していくことで得られる恩恵のほうが多いと判断して(ないことも多々あるけどそれは…)、Tech企業に付き合うことを決めたわけですから、継続的なコストとしてそういうものを最初から織り込んで行く必要があるというのがまあ今の世の中なわけですし、運用保守を請け負うということがどういうことかというと、そういった世界観できっちりとやることにほかならない訳です。だから、「ちゃんとした会社」じゃないとできないんですよね。保守をちゃんとやる、ということに胸を張れないと。

で、結局なにが言いたいかというと、COCOAみたいなプロダクトにおいて、保守の役割とは一体何だったのか、ということですね。関係筋はぜひ委託先の選定プロセスについて見直してほしい次第。

社会学者への反発と他の学問との差異について

身もふたもないことを言うと、社会学者の側も、そうでない側も「社会学」という命題の大きさを持て余しているのではないかと昨今の争いを見て思う次第です。

社会学の研究対象は多岐にわたっていて、一人の学者がカバーする範囲はそれに比較して極めて狭い、という印象があります。大学の学部で概論を履修した程度では「社会学者とは何か」を把握できない、と感じています。
もっとも、僕が履修していたのは25年前の出来ことですから、一般教養としての社会学概論がそこから進歩していることは期待したいんだけど。

そういった枠組みであるから、「社会学者」という肩書でものを喋っている人がAさんとBさんとCさんでは価値観の根底から違う、ということもよくあるように思えます。そりゃそうよ。学問としての目的がでかすぎるんだよね。ただ、本来取り扱うべき「統計とデータ」というベースに無頓着な人が大きな声を上げていることがよく観察されるのはなぜか、と考えるともうちょっと学問の根底の部分について統一的なものをちゃんと据えて、かつ学問の進展とともに厚みを持たせていくべきなんじゃないかと思います。

エセ科学とのボーダーラインで苦しんでいる代表的な学問として「心理学」のようなものはそういったところを経過してアップデートされていると思いますし、まだわからないことが多すぎて過去の常識とみなされることが大きくひっくり返るということを繰り返しているし、それを言ったら物理学ですらそういうことが起きる。だから、ひっくり返るときにちゃんとひっくり返れるというのも学問としては大切なことですよね。医学にしても、基礎科学にしても、それを拒む権威がいたという黒歴史はまあまあ今でも繰り返されてはいます。
だから、社会学だけが特別おかしな人に牛耳られている、とは思ってはいません。

ただね、少なくともこの何年かで起きている「Twitterでイキるxx学者」という存在はいただけないんですよね。閉じた世界での話ならともかく、今の社会での活動に従事している「個」に対して一方的な価値観からの攻撃を行う、ということを行うならなおさらです。それに根拠がなかったり単に価値観の相違であることを権威を傘に否定するなどはたちが悪いわけです。逆に言うと、「正義ではなく見解の相違」であれば攻撃的ではなく建設的な議論ができるようなことをわざわざ揉め事の種にしている。

コレ自体は社会学者という看板に限った話ではないですが、社会学に特有の問題があるとしたら「あまりに個々の見解過ぎて一般論から外れているという形での反駁が難しい」ということなんですよね。他の学問であれば「常識はずれ」で済んだり「否定的な研究」で済んだりするのが、そのことをそのように取り扱っている人がその人(とその周囲の賛同者)だけであるというようになってしまうとどうにも反論がしづらいですよね。で、それを「社会学者」という看板で行う、というのが社会学に従事している人にとっては一番苦々しい話だと思いますし、俺は関係ないのにって思うところだと思います。

でも、それなら社会学、という看板を解体して活動することに舵を切るしかないですよね。これは、(悪い)権威からの脱却という意味でも重要かもしれません。ただ、枠組みの力が弱くなる、という難点もありますし、それに対する抵抗はありますよねきっと。

社会学以外の学問をベースにしている人の目からすると目立っている社会学者のイキリに対して同じ社会学からの物申す力が働かないのはなぜだ、という疑問が強いと思います。そこに対してちゃんと向き合っていくことが必要なんだと思いますし、そこに目をつむるのであれば「色々いるんだから社会学自体を批判するな」なんて言葉を発するべきではないと思いますよ。もちろん、研究で答える、という王道もよいと思いますが、外野の目からすると先に述べたとおり、もっと基盤の部分をきっちり積み上げてほしい。少なくとも、「その研究結果はあなたの主観に過ぎない」というものを成果として認めないようなプロセス、ルールがないと他人の研究をきっちり批判するなどがしづらいままだと思うんですよねえ。