novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

検索避けは失敗するとむしろご開帳にしかならないよね

まあまあクローズドなプラットフォームの検索タグとかでやるならともかくね。とはいえ、例えば今Googleで高専って検索したら大体リアルな高専が出てくる(もちろん、過去の検索履歴によるだろうがw)ので、おおよそTwitterなどSNSの性質に拠るところ大とは思いますけど。

いずれにしても「特徴的な」「使用頻度の低い」「とは言え日常的に使われる」単語を検索避けワードとして採択してしまうと、謎のトレンドが発生してかえって目立つ。それを造語でやったとしても、界隈が盛り上がるとトレンドや関心ワードとして上がってきてしまうだろう。ぶっちゃけ、オープンなプラットフォーム上での検索避けってのは比較的少数の中でのみ共有されている、という状況でない限り、無意味どころか逆効果だよね。

だから、ある程度クローズドな状態でやるべきではあるんだよ。これは10年前とは状況が違うから。昭和の校則みたいな村ルールで正義を為したように感じている界隈の人がいたら内野にいる人が注意してあげよう。

松井証券のアレは何がヤバいのか

正直なところ、あんな状態でシステムが運用されていた、という事実そのものが金融システム屋としては衝撃なんですが、昔先輩から聞いた武勇伝ではこんな感じだったんですよね。
「昔、証券会社のシステム作っててリリースしたのはいいんだけど不具合が出たんだよね。で、億単位の取引上の問題が出た。で、ユーザーの人と話をしたら「その程度の損害は俺らがディールで取り戻すからとにかくその機能早く使えるようにして!」って言われてしびれたんだよねー」

まあ、そういうマインドだってことはわかる。他の会社でも思うことはあるけど業務の人たちって「機能に対してはいくらでも金を出すがランニングとかセキュリティとかリグレッションテストみたいな意味のがわからないものには金出したくない」っていうのがどうしてもついて回るんですよね。

そういう一般論の延長線上に今回の事件もあると思うんだけど、特にお金を扱うシステム(現金に直結する、金融系の取引をするシステム)においては適格性に欠ける、といわざるを得ませんよね。まず、本番環境のデータを委託先が自由に持ち出せる、という時点で完全にアウトですよ。委託先なんてもんじゃない。丸投げ先。監査もしてないってことでしょ。本番データの取扱なんて牽制機能をきっちり用意していて、複数人がグルになった組織的犯罪ならともかく、関わっている一個人だけでなんとか出来ちゃうのって、前世紀並みですかね(前世紀のシステムは金融でもまあ怪しいところはある…)。

とはいえ、流石にデータを平文で持っているかとかそういうことはないとは思うんですよね。ハッシュがわかってロジック(Saltとか何回やってるかとか)もわかっているのであれば辞書攻撃的なものでパスワードが実質復号可能ですからね。まあ、恐ろしい話です。

僕が普段関わっている銀行のシステムだったら、少なくともデータの持ち出し自体がほぼできないし、本番環境に触る場合に運用の人だけが一人で触ることはありえないし、監査のログも出るし、こんなことは絶対に成立しないですよ。やらかした奴らとか、そのような現場運用を許した委託先の会社の体制(現場任せすぎだろ)にも大きな問題があると思いますが、松井証券自体のシステムに対する姿勢がダメすぎて金融庁銀行ばっかイジメてないで仕事しろって気持ちになっちゃいますよねえ。

エヴァとアルスラーン戦記、物語の終わりとは一体…

まあね、「新世紀エヴァンゲリオンという物語」の完結を心待ちにしていた人って案外少なかったのではないかという思いが反応をみながらよぎった訳です。

そもそも、「エヴァは庵野の私小説」みたいな評価ってのはそりゃまあ物語ってのは少なからずそういう要素はあるよなって話でしかないと思うんだけど、「エヴァは庵野の説教」「あいつは幸せになったからこんなの作りやがって」みたいな話はちょっと作品をメタに捉えすぎていて僕には共感し難い(理解は可能)。僕はどちらかと言うとパロディーとかオマージュが過ぎて作品のストーリーラインにとってノイズになっていなかったか、まあ普通はみてもわかんないからいいかって感じではありました。

極端なことを言ってしまえば、エヴァンゲリオンという物語は旧劇場版で十分完結しているとも言えますし、新劇場版は確認のための延長戦に過ぎない、と言っても良いくらいですよね。実際のストーリーが「考察班」の考察の正しさを証明した今となっては、監督の結婚や震災の影響は物語の根幹を変えてない、とすら言い切れます。多分ですが、設定厨方面(僕もどちらかというとこっちより)は今回の映画を最後の確認作業と捉えて納得して映画館を去ったのではないか。つまり「公式」のハンコが捺されたというこの事実こそが物語の終焉ということですね。ただ、仮にエヴァが永遠に完結しなかったとしても、シン・エヴァンゲリオン公開前の段階でもおおよそ結論は出せていた、という意味ではここで作品が終焉を迎えたということに対しての感情は感慨深い、以上のナニモノでもない気もしますよね。

一方で、「エヴァンゲリオンという作品」がオタクに突きつけたものは何か、という観点から見ている人にとっては、果たしてこれは終わりだったのか。クソ、歳とって変節しやがって。お前は幸せになったかもしれないけどそれを俺らに見せつけるなよ、みたいな(ちょっと雑かな…)感情を持っている向きにとって、今回のお祭り的な演出すら癇に障るのではと思ったりはしますね。

この一見難解な物語がどういうオチをつけるのか、だけが知りたかった人と、自分の人生に大きな楔を打ち込んだ呪われた作品をどう始末してくれるのか、が知りたかった人の温度差、というようなものを僕は感じています。そりゃ見えるものはぜんぜん違うし、何を評価するのもぜんぜん違うし、だからどっちが正しいってこともないんだけど、観点が違いすぎて戦争が起こるのかどうかすら怪しい。それぞれのカテゴリー同士でやりあってもらえると面白んだけど、またがっちゃうと不毛ですよねきっと。

最近、長らく紡がれていた(停滞のほうが大きいけど)、田中芳樹の代表作2つ、アルスラーン戦記と創竜伝が終わりましたね。終わらせたと言うか終わらされたと言うか、ともかく、あれ、こういうお話だったんだっけ、みたいな事になってしまって僕としてはどうにもこうにもな感情しかなかった。昭和から平成初期の空気感を書き飛ばして来た創竜伝はもうこれだけ時間が空いてしまうと価値観の乖離が激しくなって続けられないよな、と思っていたのでまあ結末として仕方がない感じはあったけれど、アルスラーンなんって結局作者は群像劇が書きたかっただけでキャラはどうでもいいレベルでただ死んでいくのってちょっと悲しいよね。

だから、エヴァはうまく終われた物語、なんだと思う。でも、エヴァは物語の外に残したものがあまりにも大きい(創竜伝なんて役不足と役者不足の意味の違い…今では単純な誤用でもないよね、と言われることもあるくらいだが…を世の中に明示したくらいしか貢献してないよな)。だから、作品論が物語論には帰結しないという点が、果たして作者(庵野監督だけではなくね)にとって良いことだったのかどうか、ということをどうしても思ってしまう。ただ面白い物語を作りたかったのか、それともそこに大きなメッセージを込めたかったのか。最終作にこれでもかと詰め込まれたパロディ、オマージュ、メタネタの数々を見るにつけ、「作ってる側も楽しいって思えるものを作ろう!」という純粋な気持ちと、メタ要素が現実の作り手たちを侵食して結果作品に作り手自身がフィードバックされてしまったことへの後悔めいたものを感じてしまったわけだ。

はじめから最後まで、幸せなままで作成される物語、というのは案外少ないのかもしれない。時間を掛ければ掛けるほど、そういう要素は強まってくるのだろうな。