novtanの日常

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エヴァとアルスラーン戦記、物語の終わりとは一体…

まあね、「新世紀エヴァンゲリオンという物語」の完結を心待ちにしていた人って案外少なかったのではないかという思いが反応をみながらよぎった訳です。

そもそも、「エヴァは庵野の私小説」みたいな評価ってのはそりゃまあ物語ってのは少なからずそういう要素はあるよなって話でしかないと思うんだけど、「エヴァは庵野の説教」「あいつは幸せになったからこんなの作りやがって」みたいな話はちょっと作品をメタに捉えすぎていて僕には共感し難い(理解は可能)。僕はどちらかと言うとパロディーとかオマージュが過ぎて作品のストーリーラインにとってノイズになっていなかったか、まあ普通はみてもわかんないからいいかって感じではありました。

極端なことを言ってしまえば、エヴァンゲリオンという物語は旧劇場版で十分完結しているとも言えますし、新劇場版は確認のための延長戦に過ぎない、と言っても良いくらいですよね。実際のストーリーが「考察班」の考察の正しさを証明した今となっては、監督の結婚や震災の影響は物語の根幹を変えてない、とすら言い切れます。多分ですが、設定厨方面(僕もどちらかというとこっちより)は今回の映画を最後の確認作業と捉えて納得して映画館を去ったのではないか。つまり「公式」のハンコが捺されたというこの事実こそが物語の終焉ということですね。ただ、仮にエヴァが永遠に完結しなかったとしても、シン・エヴァンゲリオン公開前の段階でもおおよそ結論は出せていた、という意味ではここで作品が終焉を迎えたということに対しての感情は感慨深い、以上のナニモノでもない気もしますよね。

一方で、「エヴァンゲリオンという作品」がオタクに突きつけたものは何か、という観点から見ている人にとっては、果たしてこれは終わりだったのか。クソ、歳とって変節しやがって。お前は幸せになったかもしれないけどそれを俺らに見せつけるなよ、みたいな(ちょっと雑かな…)感情を持っている向きにとって、今回のお祭り的な演出すら癇に障るのではと思ったりはしますね。

この一見難解な物語がどういうオチをつけるのか、だけが知りたかった人と、自分の人生に大きな楔を打ち込んだ呪われた作品をどう始末してくれるのか、が知りたかった人の温度差、というようなものを僕は感じています。そりゃ見えるものはぜんぜん違うし、何を評価するのもぜんぜん違うし、だからどっちが正しいってこともないんだけど、観点が違いすぎて戦争が起こるのかどうかすら怪しい。それぞれのカテゴリー同士でやりあってもらえると面白んだけど、またがっちゃうと不毛ですよねきっと。

最近、長らく紡がれていた(停滞のほうが大きいけど)、田中芳樹の代表作2つ、アルスラーン戦記と創竜伝が終わりましたね。終わらせたと言うか終わらされたと言うか、ともかく、あれ、こういうお話だったんだっけ、みたいな事になってしまって僕としてはどうにもこうにもな感情しかなかった。昭和から平成初期の空気感を書き飛ばして来た創竜伝はもうこれだけ時間が空いてしまうと価値観の乖離が激しくなって続けられないよな、と思っていたのでまあ結末として仕方がない感じはあったけれど、アルスラーンなんって結局作者は群像劇が書きたかっただけでキャラはどうでもいいレベルでただ死んでいくのってちょっと悲しいよね。

だから、エヴァはうまく終われた物語、なんだと思う。でも、エヴァは物語の外に残したものがあまりにも大きい(創竜伝なんて役不足と役者不足の意味の違い…今では単純な誤用でもないよね、と言われることもあるくらいだが…を世の中に明示したくらいしか貢献してないよな)。だから、作品論が物語論には帰結しないという点が、果たして作者(庵野監督だけではなくね)にとって良いことだったのかどうか、ということをどうしても思ってしまう。ただ面白い物語を作りたかったのか、それともそこに大きなメッセージを込めたかったのか。最終作にこれでもかと詰め込まれたパロディ、オマージュ、メタネタの数々を見るにつけ、「作ってる側も楽しいって思えるものを作ろう!」という純粋な気持ちと、メタ要素が現実の作り手たちを侵食して結果作品に作り手自身がフィードバックされてしまったことへの後悔めいたものを感じてしまったわけだ。

はじめから最後まで、幸せなままで作成される物語、というのは案外少ないのかもしれない。時間を掛ければ掛けるほど、そういう要素は強まってくるのだろうな。