novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

予算、契約、納期

(ITベンチャーではない)日本の企業やお役所で「機動的なシステム開発」ができない一つの理由に、要求定義(RFP)、予算策定→案件協議→見積り依頼→ベンダ決定→契約手続き→要件定義、設計開発…っていうプロセスがとにかく時間かかるから、という点がありますよね。まあでも企業向けシステムやっていれば「枠」の工数でちょちょいと対応するパターンも結構多いと思うんですよ。大規模ならなおさら。

例えば、銀行ホストの開発なんて、大体の年間の開発計画があって、その枠に案件を押し込んでいって、足りなければ発注する、みたいになっていることもありますから、枠を超えない範囲で取捨選択したりして案外パパっと開発しちゃったりするんですよね。みんなのイメージしている「デスマーチが起きる大規模案件」って別にウォーターフォールがどうとかじゃなくて、別途開発協議が必要な大型案件である、ということに起因していたりします。まあ、お役所だと必ずコンペせいみたいな縛りがあったりして、手続きを踏まなければならない的な話もありますけど、随意契約のメリットってのもあるわけじゃないですか。というか、コストメリットだけを考えるとベンダー丸投げが一番良かったりしますよね。なぜなら、ちゃんと充足したRFPなんて作れないから。言い値(検証しないとは言ってない)でいいからお前ら決めてってやったほうが明らかに精度の高いシステムができるはず。ベンダーがクソじゃなければね。クソのこともあるけどね。癒着だとかボッタクリだとかは後で監査対応しましょうぜって話で。

まあでも流石に丸投げはねーよなーってなった場合に、チョチョイと物を作りたかったらやっぱり「内部で丸投げできる体制」を作るべきなんですよね。そのためにはやっぱり「枠」の予算があるべきだし、予算の使い方なんて後で精査すりゃいいんだからとにかく枠と人を集めろーって思うんだよねえ。最近、銀行系でもだいぶそういう話になってきている(100%内製ってのが無理な以上、そうなるのは当たり前ではある)。

ま、別にこれは新しい考え方でもなんでもないんだけど、特に硬直化したお役所の問題かもしれないけど、デジタル庁を創設してどうとかっていう話のバックグラウンドに、そういう当たり前に動ける体制や仕組みを作るってのを伴わせないと結局の所、お役所だったね、で終わってしまうのでそうならないことを期待しています。

メディアは答弁の「意味を」ちゃんと報道しようよ

立場上明言できないみたいな甘っちょろいことを首相に許しているのはマスコミの仕事っぷりってのが最近良くわかってきた。
この2ヶ月位の支離滅裂な政権側の答弁についてなんて、「実質こう言っている(断言)」っていう見出しで報道しても構わないくらい、「言質取られないぞ~取られないぞ~」としているだけの警察の取り調べか裁判での証言かなんかなのってレベルになっているよね。だから、「ヤバいときも開催するんですか?」「開催した場合は~」みたいなやり取りは、「答弁で開催中止について触れず、実質開催中止にする意図はないことを示した」くらいの報道をすればいいんですよ。で、抗議なんか来た日にゃ「じゃあ開催するんですか?しないんですか?」ってあらためて聞けるわけじゃないですか。明確に答えないってことを許しているのは報道だぞ。仕事しろ。

アスリートの悲哀と無邪気さについて

金が余っているとか、絶賛成長中とか、という国家が国威発揚のためにオリンピックをやる、という時代では(だいぶ)なくなってきた現状、オリンピックをやること自体はもはや経済活動としてプラスなのかマイナスなのかもわからないけど、巨額の金が動く、という点だけは間違いないわけで、金が動くということはそれで儲かる人がいるんだよね。それだけの話ではあって、仮に収支的にはマイナスであったとしても、十分な価値がある、と金を出す人たちが思うのであれば、やればいいんだよね。ところで、金を出す人とは誰か。結果的には膨れ上がった費用を負担しているのは誰なんだっけ?スポンサー企業?だったら勝手にすればいいけど、税金投入されてますよね…なので、我々は金の使いみちに対して十分に発言する資格があります。

さて。

正直言って、やるにしてもやらないにしても、できるできないではなくてやりたいやりたくないの世界になっちゃっている気がしなくもないんですが、例えばオリンピックをやるにあたって必要な医療リソースをオリンピック専用に割いたらコロナ分の医療どうなるとかそういうシミュレーションって政府はしないんですかね。しない時点でできないって結論になっている気がしなくもないんですが。

そんな中で、ついにアスリート本人を矢面に立たせるような状況になっており、揉めているわけですよね。そりゃアスリート本人はオリンピックやってほしいだろ。それについて異論はあんまりないと思うし、矢面に立たせるってのはそういう意思を表明せよっていう要請だよね。だから、その要請に応えることはオリンピックやるべきではない派から批判される事自体はしょうがないと思う。

そもそも、名誉とかお金とかそういう話が絡むとグロテスクではあるけど、本質的には「オリンピックに出たいアスリート」は無邪気なんだと思う。少なくとも、「コロナの状況なんてどうでもいいからオリンピックやろう」なんて思っているわけはないと思いたい。とはいえ、「オリンピックで活躍する姿を見せてこのつらい状況で希望を」みたいなのは無邪気すぎるよね。許される無邪気さとはちょっと思えない。
だから、「やる方向に世論を動かしたい」という意思で広告塔に立つのであれば、「コロナの状況で無理してまでやるべきではない」という意見の人には当然批判されて然るべきだし、その覚悟は必要だよね。その覚悟がないってのはちょっと信じがたい無邪気さだと思う。

広告塔に立つこと、開催を求めること、そのものについて「やってはならない」ことだとは全然思わないし、しょせんそれだけの話であれば批判としても「お前は何を言っているんだ?」以上のものでもないし、ましてや人格を毀損するとかそういうものは必要ないとは思うけど、選手ってのは利害関係者だから、そういう観点からも責められる余地はあるよね。

でも、選手には決定する力はない。だから、責任の範囲もそんなに大きくないわけだし、批判はその責任に合わせて行われるべきだから必要以上にエスカレートする必要はないと思う。ちゃんと決定する権力をもった先に批判がきちんと向くことが大事だし、選手を責めるのってそういう批判から目をそらしたり、選手可哀想での逆転を狙われたりでよいことあんまないよね。

ところで、「他の夢はコロナのせいで蔑ろにされているのになんでオリンピック選手の夢はいいわけ?」みたいな意見をみるとそうだよねって思うし、やっぱりこれはこれまでオリンピックのために費やしてきた金を無駄にしたくないという典型的なコンコルド効果であって、今、日本がすることは損切である、と主張していたどこかの記事が正しいよねって思ってしまった。