金が余っているとか、絶賛成長中とか、という国家が国威発揚のためにオリンピックをやる、という時代では(だいぶ)なくなってきた現状、オリンピックをやること自体はもはや経済活動としてプラスなのかマイナスなのかもわからないけど、巨額の金が動く、という点だけは間違いないわけで、金が動くということはそれで儲かる人がいるんだよね。それだけの話ではあって、仮に収支的にはマイナスであったとしても、十分な価値がある、と金を出す人たちが思うのであれば、やればいいんだよね。ところで、金を出す人とは誰か。結果的には膨れ上がった費用を負担しているのは誰なんだっけ?スポンサー企業?だったら勝手にすればいいけど、税金投入されてますよね…なので、我々は金の使いみちに対して十分に発言する資格があります。
さて。
正直言って、やるにしてもやらないにしても、できるできないではなくてやりたいやりたくないの世界になっちゃっている気がしなくもないんですが、例えばオリンピックをやるにあたって必要な医療リソースをオリンピック専用に割いたらコロナ分の医療どうなるとかそういうシミュレーションって政府はしないんですかね。しない時点でできないって結論になっている気がしなくもないんですが。
そんな中で、ついにアスリート本人を矢面に立たせるような状況になっており、揉めているわけですよね。そりゃアスリート本人はオリンピックやってほしいだろ。それについて異論はあんまりないと思うし、矢面に立たせるってのはそういう意思を表明せよっていう要請だよね。だから、その要請に応えることはオリンピックやるべきではない派から批判される事自体はしょうがないと思う。
そもそも、名誉とかお金とかそういう話が絡むとグロテスクではあるけど、本質的には「オリンピックに出たいアスリート」は無邪気なんだと思う。少なくとも、「コロナの状況なんてどうでもいいからオリンピックやろう」なんて思っているわけはないと思いたい。とはいえ、「オリンピックで活躍する姿を見せてこのつらい状況で希望を」みたいなのは無邪気すぎるよね。許される無邪気さとはちょっと思えない。
だから、「やる方向に世論を動かしたい」という意思で広告塔に立つのであれば、「コロナの状況で無理してまでやるべきではない」という意見の人には当然批判されて然るべきだし、その覚悟は必要だよね。その覚悟がないってのはちょっと信じがたい無邪気さだと思う。
広告塔に立つこと、開催を求めること、そのものについて「やってはならない」ことだとは全然思わないし、しょせんそれだけの話であれば批判としても「お前は何を言っているんだ?」以上のものでもないし、ましてや人格を毀損するとかそういうものは必要ないとは思うけど、選手ってのは利害関係者だから、そういう観点からも責められる余地はあるよね。
でも、選手には決定する力はない。だから、責任の範囲もそんなに大きくないわけだし、批判はその責任に合わせて行われるべきだから必要以上にエスカレートする必要はないと思う。ちゃんと決定する権力をもった先に批判がきちんと向くことが大事だし、選手を責めるのってそういう批判から目をそらしたり、選手可哀想での逆転を狙われたりでよいことあんまないよね。
ところで、「他の夢はコロナのせいで蔑ろにされているのになんでオリンピック選手の夢はいいわけ?」みたいな意見をみるとそうだよねって思うし、やっぱりこれはこれまでオリンピックのために費やしてきた金を無駄にしたくないという典型的なコンコルド効果であって、今、日本がすることは損切である、と主張していたどこかの記事が正しいよねって思ってしまった。