ちょっと大袈裟なタイトルですが。
前回の参院選が終わったあと、こういうエントリを書きました。
novtan.hatenablog.com
どうも、今回の参院選もその延長線上にあるような結果になった、ということは、もう日本という国のフェーズシフトが始まっている、ということに他ならないと思っているし、これは僕ら昭和生まれで平成を行きてきた世代の人間としては非常に忸怩たるものがあるのですが、いわゆる「戦後」の価値観(倫理観、文化感)が終わりを迎えたということです。何を今更、という人も多いかも知れないけど、僕としてはこれまでの成り行きは「震災からコロナの打撃」という大きな出来事に対して「貧すれば鈍する」という事象が生じている部分が大きいと思っていたんですよね。それはそれで正しい部分もあると思いたいんだけど、いよいよ、そうでないところに差し掛かってきたのがこの参院選の結果だったと思います。
昔、ファッションは我慢、リベラルも我慢、的な主旨のことを書いたんだけど、やはり僕らの世代の価値観としては、やせ我慢しても人並みには生きていけるという状況に依拠していた部分が大きいと思うんですよね。ところが、今は我慢してもいいことない。なんなら我慢することでより奪われる、という世界に「見えてきて」いるわけだから、そんな価値観を押し付けても支持を得られるわけもなく、その部分の変容が大きいわけです。と言っても、以下に水準が落ちたように言われているとはいえ、世界でも有数の理知的な国民性を持つと思われる日本人(これは絶対的ではないにしても、完全に否定してはいかんと思う。愚民として分断して愚民としての自覚を持たせて云々ってほんと良くない)なのですから、他人をきちんと信頼するだけの理由を持つことができれば、ある程度は上手くいくと思います。でもさ、そこの前回のエントリに書いた通りで、結局「これどうなってるんだ」という問いについて冷笑されると言ってもいい態度(真っ黒に塗りつぶされた文書が開示されるなんてのはその最右翼だよね)を取られてしまうとさ、もう理性も吹っ飛ぶわけですよ。これは与党がとか行政が、とかではない。野党だって都合の悪いことをひた隠しにする態度自体は全く隠しもしない。ひた隠しにするならまだわかるけど、開き直ってるもんね。共産党お前らやぞ?
こんなんで、何を信じて生きていけばいいんですかね。自分の力で泳ぐだけの地位を得ている社会人の人は会社がいつ潰れてしまうかに怯えながらも、なんとかなるだろう、と考えている。僕もそうだ。でも、そうではない人口がたくさんいるのもわかるし、一番そこで未来を感じていないのが我々の同世代であるという事実にも絶望感がある。社会がリセットされたら今よりましになるかも知れない、という理屈は割と昔から定番であり、社会の変革を迎えるときには得てしてそういう素朴な理屈からの行動が世の中を実際に動かすんだよね(大抵の場合、短期的にはとても悪い結果になって、前より悪い社会が中期的に到来することが多いけど)。
参政党にしたって、裏でどんな戦略で動いているのかはしらんけど、少なくともここまでは「言論で」実績を得たんだよね。それがどんなに暴力的な言動であっても、実際に暴力沙汰は(どうも支持者がやらかしたりはしていそうだけど)ないし、昭和の言論を考えるとまだ穏当な方だろう。いま綺麗事を並べている人たちだって本当はこういうレベルの暴力的な言論で政治をやりたがってない?そんなことない?
新党が躍進するときに起こりがちなのは「俺達は本音を話している」なんだよね。これは既存の支持勢力がないからできることではあるんだけど、既存政党からすると常に脅威だよ。ましてや、この数年、社会にわだかまる様々な問題について、お茶を濁し続けてきたという実績がある。これはもう抵抗力を失っていると言っても過言ではなく、結果として参政党の躍進を許したし、国民民主党があれだけやらかしてもまだ支持を固めている。既存の政党ももう全員が今まで以上に幸せになる社会の実現なんてキレイごとだってわかっている。既存の歪んだ仕組みは大きな犠牲とともに変えていく必要があるけど、その大きな犠牲を国民に受け入れろ、ということはもっと日本自体が凋落した実感が国民全体にないと出来ないだろうし、そうなったときに弱者により多くの痛みを受けさせるなんてその時になっても言えないよね。もちろん、そうなることは最悪のシナリオだけど、今、少しでもみんなが痛みを引き受ける政策を実現できないとしたら、いずれそうなる。でもさ、「みんなで我慢しよう」なんていう挙国一致的スローガンを蛇蝎の如く嫌い、捨てて埋めてきた左翼リベラルにはそんなことはできないだろうし、与党は日本のために犠牲になる政治なんて出来やしない。そしたらさ、躍進するわけですよ、痛みの原因が他にあるから排除しようぜ、という人達が。まあ早晩そんな単純なことで社会が良くなりはしないことに現実におきる問題から気付かされることになるとは思うんだけどね、そういうプロセスがあって初めて本当の改革に着手できる地盤が整うんだろうなあ、ということは人間が愚かなゆえに仕方がないんだと思う(偉そうに言っているけど、それを甘んじて受け入れざるを得ない時点で愚かな人間なわけですよ僕も)。
僕は根幹はリベラルのつもりではいるけれども、保守的な思想も多分に持ち合わせていて、全てを旧弊と切って捨てることに抵抗を覚える人間ではあって、地方の風習やら家のあれこれやらを二言目には洗脳って言っちゃう人たちが嫌いなんだけど、その理由の一つが結局その人達も自分たちの価値観を正しい倫理とみなして社会を洗脳しようとしてきたからなんだよね。そして、それはある程度の裕福な社会では成立していた。でもそれに社会の側がついていけなくなった今、維持すべきなのはその現代というごく短い時間に作られ、実践されてきた倫理そのものなんだろうか、ということに疑念を抱いている。もとより、個々人の自由を尊重するはずがその実自分たちの倫理で自由に大きな足かせをつけるような価値観なんだよ。僕はそれほど自由について幻想を抱いている方ではないと思っているけど、今起きているのは自由そのものについての疑義ではなく、足かせの正しさ(正当性)についてなんだよね。ミクロな話ではこれは単なる権力闘争に過ぎないんだけど、昭和から平成と続いてきた戦後の価値観と決別したはずの現代の倫理が新たに依るところなく単純な崩壊を見せ始めているということに危機感を覚える一方で、一度ぶっ壊さないとダメなんだろうかという悲観的な気分もある。
ともあれ、次の国会で何が起きるのかについてまず注視をしておきたいですね。