novtanの日常

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インターネットは人類には早すぎたのかもしれない

インターネットそのものは別にコミュニケーションツールとして成立したわけではないけれども、現時点でのメインの用途(特に個人にとっては)であるインターネットを介したコミュニケーションにここまでエラーが生じるのを見ていると何かを間違えてしまったのではないかという思いは禁じ得ない。

ある種の人にとってこれは抑圧からの開放だけれども、抑圧というのは社会にとってはルールであり、暗黙の了解であるものだし、それをいかにして開放するかということについては実際の所慎重になるべきことはたくさんある。

素朴な差別的言動と、原理主義的な反差別(ここにも実は素朴な差別的言動が無批判に存在している)が戦っているのを見て原理主義的な反差別の側に立てないのは結果としてコミュニケーションの場においてコミュニケーションを拒否しているように見えるから、というのもあるし、そこに闘争を見てしまうと手段としての正しさを失っているように見えてしまうからかもしれない。往々にして、目的のために手段を選ばなかった場合、目的が腐り果てる。

もとよりインターネットは本音垂れ流しツールではない。けれども、そこには本音があって、本質がある。でも、その本音や本質はその場に提示することがふさわしいことなのだろうか。人が個人であることを尊重する以上、意見というのは対立するものであり、とても認容できないものだってあるだろう。だから社会は常に倫理という名の妥協機関を設けているわけだし、倫理が変化していくことが可能なのは妥協点が解消される場合に限られる。

アフリカの革命が必ずしも幸せな結末を迎えていないのはそれが革命である以上しかたがないことなのかもしれないけど、インターネットの速度は人々が物事を受容し切る前に次々に変容していっていろんなことを置いてきぼりにしている。

もはや矛盾や妥協が解決できるだろうと言う結論から社会倫理の改定を迫る事自体は間違っていないと思うけれどもその手段が故に別の妥協を持ち込むことは受け入れられ難いだろうし、あたかもそれが正義というように語ること自体がそもそも間違っている。

インターネットは誰でも正義を語れる世界だけど、正義が成立するのは極々限られた倫理の範囲でしかなく、妥協の産物の結果生まれている「間違い」を正義で攻撃することは大変な問題を生じさせかねない。インターネットでの議論はそういった意識を簡単に突き崩し、性急な結論を導き出そうとして結局対立している者同士のコミュニケーションなどかけらも可能としない。