novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

誰かを傷つけずに生きている人なんていないよね

セクハラと差別とヘイトスピーチが全部ごっちゃになって語られているような気がする例の問題ですが。

セクハラ一つとっても、本人が嫌がるエロネタを話すことと、俺と寝ないと仕事をやらない系のこととは大きく程度が違うわけで、それを表す言葉が「セクハラ」に終始してしまっていることも一つの問題なんだろうけど。

セクハラはだめだよね、の世界にもいろんなものがあるし、差別だって本質的な問題は「不利益」にあるわけだし、極端な話お前が生きているだけで俺が傷つくんだ系の気持ちをフォローすることなんて出来るわけないんだし、人間ってのはそういう生き物でしかないんだと思うんだよね。

で、ヘイトスピーチとか、テレビ番組での障害者ネタとか、はあちゅうの童貞揶揄とかが問題になるのは基本的に無差別攻撃だからだと思っている。人間と人間は互いをある程度は傷つけながらコミュニケーションを取って生きていくものだと思ったのはもうだいぶ前のことなんだけど、それって「謝れる距離」にいるからこそ成立しているんだよね。ウェブは人類には速すぎた、という評価をするのであれば、傷つける距離だけ縮まって謝れる距離が縮まっていないことがその最大の問題だ、と僕は思ったりもする。会えばいい人、と言うのはよく言われることだと思うけど、そういう距離の差異は表現の許容度の差異にもつながる。ぶっちゃけ、20年前まではどっかのクソみたいなタレントがクソみたいな発言をしたとしても、クソだなこいつはで終了していたし、そこにつながりを持つような距離感ではなかったわけで。

セクハラがオッケーかどうかなんて基本NGに決まっているんだけど、別にそれを許容する距離感があっても良い。でも、それを強制したり、不快になった人に謝らなかったりすることが良くないわけだし、ハラスメントなわけだ。これは当然だけど被害を受ける側にも寛容が必要な世界だし、そんな寛容なんて不要な空間だってある(本来、仕事の場ってのはそういうものだと思う)。

自分のこと、及び相対している他人のこと、そこでどういうコミュニケーションを取るかがいちばん重要なことなんだと思うんだけどね。

いずれにしても、クソはクソだということは譲る必要はないし、謝罪することが出来る人に対してはもう少し寛容な世の中でありたいと思う。

セクハラの許される時

端的にいって、「デメリットよりメリットが大きい」ときに、社会的不正義は時として見逃され、あるいは許容されるんだよね。
セクハラの件について言えばまさしくそれが表出していて、いやらしい話になっている。

かつての、特にある種の業界における「クローズド」な空間においてはセクハラというのは正義ですらあった、というのはわかる。metooの話だって結局のところ、オープンにすることのハードルとリスクが下がってきたことがいわゆる「デメリット」を減少させた結果の出来事ではあり、早い話が、「正義を遂行するコストが下がった」ということにほかならないよね。だからといって、その正義をなす主体が絶対的正義ではありえない以上、その正義ではなく、主体についても「正義の的になるコストが下がった」とも言える。

つまり、「石を投げるのは簡単だが罪を犯したことのないものだけしか投げられないリスクは高まっている」というのが今のウェブの状況とも言える。ここでの問題は「罪」には等級があるってことだけどね。

「あいつは嫌いだが告発は支持する」というのはその点を踏まえた話ではあって、つまりそれは、より巨悪を糾弾するためなら多少は目をつむってやる(ただし許してはいない)という、至極当たり前の思考様式の一つでしかない。もっというと、構造的には冒頭の「デメリットよりメリットが大きい」という構図にほかならない。すなわち、こういった留保付きの正義の執行においては根本的な構造が悪徳と変わらないという皮肉的な構図があるんだよね。そういう問題を多少なりとも軽減するのが過去のあやまちを悔いる行為であり、決して開き直ることではないんだけどねえ。この構造を維持し続ける限り、行き着く先は「状況によってはセクハラは許される」という世界の保存でしかないと思うんだけど。

市場と価値と、プレミア価格

チケット転売にしても、獺祭のプレミア価格にしても、純粋な市場原理(というと経済の人に怒られそうな気がするが)において、価格は市場が決める!と言い切ってしまうのはありなのかもしれないけど、その市場において、本当の価値が得られているか、ということは特に空間的な距離も時間的な距離も縮まっている昨今においては考えなければならないことだと思うんだよね。特に獺祭の件については純粋に情報の価値が一部不公正な市場の価格に反映されているだけな気がするから、ああいったアナウンスが情報の価値を下げた結果として、適正な値段に変わっていく、というのはあるかもしれない。そういう意味では、あの意見広告ですら市場原理の一つの機能である、と考えても良いと思っているのだが。

不公正な市場を放置するというのは消費者に不利益を与えた結果、市場の成長を抑制し一部の収奪のみが機能する、ということにもなりかねない気がするが、そのあたり気がするとしか言えないのが辛いところではある。