novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

FFRK ナイトメアを総ナメする

覚醒もだいぶ溜まってきたので放置していたナイトメア3をクリアすることにしました。途中経過。覚醒のない頃にクリアした先人はすごいですが、試行錯誤の時間がないのでガチャで解決気味です。

FF1

覚醒がメイアしかない上にヒカセンさん以外は超絶もままならない現状、3は後回しですね

FF2

全然何もないので2すら29秒かかる。3無理。

FF3

挑戦中。覚醒はたまねぎオンリーなのでちょっと厳しいか?でも超絶は揃ってるから行けるかな?

FF4

気がついたらカインくんが完全体になってたよ。闇セシ覚醒もあるので行けると思う。

FF5(30秒切りクリア)

覚バッツ、覚フェリスがいるので楽勝…楽勝でしたよ(死闘
ガラフ超絶、クルル超絶奥義、レナリジェネガ、というラインナップなので多少の試行錯誤でクリア

FF6(30秒切りクリア)

覚セリスをついに手に入れたので楽勝と思いきや案外めんどくさかった。ストラゴスとティナも覚醒しているので力押しでなんとか。

FF7(30秒切りクリア)

クラウドとセフィロス覚醒しているのになんでこんなに苦労するの?!(下手くそ)
バフがお犬様なのは良いとして、セフィロスがチェイン後半いかないと限界突破しないのは纏の関係かしら。めちゃぎりぎりタイムでクリア。あ、ティファも覚醒してた…

FF8(30秒切りクリア)

完全氷パで行けるというラインナップなので楽勝(パターンに持ち込むまで何回リターンしたか)。
せっかく覚醒しているリノア、開幕超絶使ってさあ覚醒と思ったら寝たり、サイレス食らったり。おいた場所が悪かった…

FF9(30秒切りクリア)

未だにエーコ超絶が手に入らないのでブレイブで頑張って代用。踏みとどまれないけどなんとかなった。全員トランスできるから楽よね。ジタンの超絶からの覚醒で超絶の追撃が覚醒中に出てカンストダメージ連発、というシナリオが完璧に実現してクリア。

FF10

ティーダは覚醒して超絶もわりと持ってますが、バッファーがいない。あまり行けそうな気がしない。バフ超絶を交換するか迷う

FF11

トットさんは覚醒していますが、さて、あとの超絶だけでいけるか。未挑戦。

FF12

なんと4人も覚醒しているのにバッファーがいない。これも交換を考えるレベル。もしかしていなくても押しきれるかな?ヴァンにまといがないから辛いか

F13

ライトさんめっちゃ強いんですが、残りのメンツが大変中途半端です。行ける気がしません。ファング超絶強いのでバッファーがいればなんとかなりそう。アフロのバフでいけるかしら

FF14

なんというか、だめな気しかしない。ヤシュさんの覚醒はあるんだけど。あるんだけど。

FF15

うーんまあベタに火力がない。でも先人状態くらいには装備あるのでやってみるかなあ

FFT(30秒切りクリア)

オル覚アグ覚ラムザチェインで押し切れー

零式

レム覚醒+トレイ覚醒でなんとかなる?なるものかなあ?バフが足りない気しかしない。

現状、6/17ということがわかりましたね。バランスよく必殺が集まっているいなか、というだけなのかもしれない。

不快さの深淵

くちゃくちゃ音を立てて食べちゃだめ、というのはよく言われる。ズルズルと汁や麺をすするのは外国人にとっては不快だ、とも言われる。でもどうやらくちゃくちゃ音を食べるのが普通、という国もあるようだ。

礼儀とかマナーみたいなのは特定の都合によって作られることが多いし、それを守ることがその社会に属することの一つの条件である、と考えると一旦出来上がってしまったマナーを「対外的な都合で」変えるのは文化に対する圧力みたいになってしまうのは当然のように思えるよね。

ここで大事なのは、結局の所、不快かどうかについてもある種文化的な背景や文脈が影響している、ということ。犬を喰う文化だって虫を喰う文化だって当たり前のように実行されている場所において不快であろうはずがないんだけど、別の価値観が持ち込まれた結果、価値観が衝突している。だから不快が嫌いじゃなくて違いってのは実は的を得た話ではあって、ただ、「ということで」ではギャップが埋まらないし本質的には何も解決していないんだよね。そこに受容がありえるのか、というところをちゃんと飲み込まないといけない。

すべての価値観を等しく尊重する、というのは無理(自分に害を為すのが明らかなものを受容することはね)としても、最大限受容できるかどうか。受容ってのは、存在を認める、ということだとしたら、0,1の話ではなくて分かれていれば良い。繰り返しになっちゃうけど、世界がこんなにも狭くなったのはウェブのせいだし、交通機関の発展や、未開地域の文明化のせいでもある。グローバル化=ユートピア、では決してないわけだし、インターネット=桃源郷でも決してないわけだ。同じ日本人の間でもこんなにも違うというのにね。

そういう幻想がまったくない元であらためて不快について考えると、「ウェブで」叫ぶことは憂さ晴らし以上の話にしかならんよね、とは思うわけ。ウェブにおける隣人が自分の意見と正反対だとして、現実の問題にどう関係あるんだ、くらいに思ってないと辛いんじゃないかと思う。そういう意味ではウェブは同じ意見の人が群れていればもしかしたら十分なのかもしれない。現実に問題に出くわしたときに、果たしてどういう行動をするのか。自分の周りの文化を変えるように努力していくのか、のほうがよっぽど重要かもしれない。

そうは言っても、ウェブで何かを言うことで、誰かに何かが伝わるかもしれない。その程度の期待でウェブと距離をおいていくことが自分の文化に存在しない価値観に対する不快感からの距離として正しいのかもしれないよ。

礼と多様性

獣に人間の皮をかぶせるために伝統的な手法として礼儀と宗教があるんだと思うんだけど、理性を他者に依存しなくてよいのであればそれは必要ない。多様性の時代になって礼を失する、というのはそういうことなのかもしれない。これも文化圏の衝突に近い話で、リベラルと保守のある種相容れないところにも思えるし、混ぜるな危険、なのか、積極的に混ぜていくべきなのか、も実はよくわからないんだけど。

礼ってのは規範であるし、人に窮屈を強いる代わりに社会の一員である資格を与える(この部分については宗教も似た機能を持っている)ものだと思う。であれば、それは窮屈の極みであるし、多様性を求めない(許さないとまでは言わないけど、軋轢のもとになる)というのが本質だろうね。道徳やらモラルやらなんやらかんやらというのは基本的にはそういうたぐいのもので、そこから逸脱することは原則許されないとなると、現代人の理性からすると打ち破るべき旧弊(という部分がある)になってしまうんだけど、単純に旧弊を打倒だけすると理性を持ち合わせないたぐいの人間は獣になってしまうわけだ。理性に「期待する」のは現状を踏まえて考えると分の悪い賭けでしかない。

だから、リベラルってのは、啓蒙主義は通り越していて現実とどう折り合いを付けるかが課題のはずなんだけど、最近は単純な旧弊打倒みたいなのも見え隠れするんだよね。これがまた話がおかしくて、それが可能になる前提である理性の存在すらそこでは確固たる地位を持っていないように見える。そうするとこれは単なるアナキズムにも感じられる。

いずれにしても、礼を失った世界というのはそういうもので、一定以上の理性をもつ人工が大多数でない限りは弱肉強食に堕ちていってしまうだろうけど、窮屈から解放されたいという一心だけでそちら側に向かってしまうのは良くないよなあ。

僕自身は(個としての)他者への関心が低すぎることに起因して多様性を持つことに対して許容度が高い(つまり鈍感ということで別に褒められたことではない)と思っているんだけど、どうしても抑制的なことを書いてしまうのはそういった意識があるからとは思っている。

人間らしくあるとはどういうことか、に向き合わないで個の解放について考えるのはまだ早いんじゃないの、とかね。

で、こんなことを書くのは別にお気楽な気分ではないんである。誰もが苦しみを背負わない社会なんてとりあえず今はないよね。