novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

国民性というのは架空の存在だとは思う

社会の成り立ちとか、リソースの配分とか。まあ、憲法に込められた思想みたいなのはある程度国民性の元になっているけど、それもひっくるめて「社会の要請」が国民性の正体だよね。なので、個人の気質に対する国民性バイアスは洗脳された結果でもあると思うし、みんなが国民性と思っている気質なんて実際にはせいぜい30年くらいでコロコロ変わっているレベルだと思うんだよな。隠し村とかならともかく。そしてそれはデバイスの進化に大きく依存してたりするよね(一騎打ち→鉄砲射撃みたいな話)。

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なので、この話も個々の社会のルールに基づいた行動をそれぞれの人間が行っているだけであり、窮屈だなって思っている人もいれば、自由だなって思っている人もいる(これが社会ではなく、人の側の差異だよね)。
だから、日本の社会のモラルに憧れる外国人がいる一方で、日本の社会を窮屈と感じる日本人がいる。それだけのことだし、出来上がったルールは緩やかにしか変えられない(いきなり変えると歪みが出る)ってだけの話であってさ。

社会の歯車として機能する一員であることを自覚し、くるくる回っていつつも、社会のあり方に対して常に良い方向にアップデートを試みる、というのが文明人の普段の有り様だと思うし、それが疲れるのであれば歯車に徹すれば良いんだよね。ただ、俺はこの社会の歯車にはなれない…という社会で生活してしまうと厳しいので自分にあったあり方の社会での生活に憧れるってのはわかる。でもそれば別に正しさを追求した結果の行動というわけでもないんだよね。

まあ、俺はこんな社会では回らねーぞってのは問題外(たくさんいるけど)で、いっそアウトローになるならともかく、社会の恩恵を受けつつ回るのを拒否するってのは社会の側からすると邪魔くさいからそれは排除に向かったりはするよね。問題は「よりよい社会」に対して後退する方向での社会のアップデートは歓迎されないってことで、これが「正義・公正」というもののに実質的にはなってしまうということ。一度構築された「よい」社会を変えていくのはそういう点で難しい。だから、「グローバルの基準で統一」というここ最近の世界の動きは恐ろしいことなんだと思うし、正義の名のもとにこれを進めていくと絶対にどこかで破綻するとは思うんだよなあ。

抑圧されていることを声高に訴える人はそんなにはいない

声の大きい人が訴えることが自分の不利益になりそうってなったときに、面と向かって対抗言論をもって立ち向かう、なんて人は実際にはそんなにはいないよね。自分にとって不利益かもしれないけど、社会にとって進むべき方向性なのであれば、我慢しよう、と思っている方が自分の利益を守ってわーわー言うよりは「良識がある」と見なされがちだし、実際にそれが社会のあるべき姿に近づく方向性だったらまあしょうがないわけで、反論せず胸のうちにしまい込むわけだ。

これはある種の抑圧ではあるものの、社会の発展のために「我慢しよう」って思っているわけじゃないですか。だから、そうやって主張している人が規制をしたがっていたりするものと同種のものを「いやこっちは良いんです」と言い出し始めたら「我慢をしている俺は何なの?バカにしているの?」って思うのは当然なんだよね。しばしばこの手の話はダブスタ批判と混同されるんだけど、そうではない。ダブスタよりももっとひどい、正しさへの裏切りに対しての感情なんだと思うんだよ。お前が正しいことを言っていると思ったから俺は我慢した。だがお前のその相反する主張は一体何だ、ってね。だったら俺も我慢しねーぞ、とね。

で、いきなりそのことを主張し始めるから急におかしなことを言いだしたように見えると思うんだけど、真面目な話、(ちゃんとした)ネット論客(であれば、これまでの経緯も含め順を追って説明するかもしれないけど)じゃない人の主張ってそりゃ急に見えるよねってことであって、そのことをことさらおかしいと言ってもやっぱりあんまり何も進まないわけだ。

だから、客観的に見てダブスタに見えるような言説ってのはたいていこういう構図を持っていて、敵を作りがちであり、なんの留保もないと多数の人に裏切り感を与える、ということになるのでやっぱりダブスタはあんまりよろしくないのだ。

コミュニケーションの断絶について

そもそもの話として「文化の盗用」という概念がしっくりこないのは、その事例が「自分がオリジナルだと主張する」「内容を捻じ曲げでこれこそその文化だと主張する」とかではないことが多いからなんだよなあ。
それ以外のもので揉める要素があるのはその「文化」と言われているのが実際には文化ではなく「象徴」を示している場合だよね。例えば、紋章やチェックの柄、旗とか。
むしろ、文化そのものは侵略性を持つもので、「他国の文化に侵略された」という文句こそあれ、文化が広がったことに文句を言う必要はないと思うんだよなあ。だからそういうのは「歪んだ」「自分の物だと不当に主張された」以外ではやっぱり揉めるべきではない(象徴の話は別よ)。

こういう話もそうで、これが仮に問題になるとしたら耳が聞こえる人による新しい手話が生み出され、それが耳が聞こえないと成立しないものになって…とか、タモリの話す中国語風デタラメ語みたいな手話が蔓延するとか、そういうことに対する危惧であれば正当性はあると思うんだけど、手話そのものが「耳が聞こえる人のおもちゃ」になるという危惧はそもそも前提がおかしいと思うんだよなあ。

それを文化の盗用だからダメとするなら日本語話者が外国語だけで喋ってみよう、という試みすらも文化の盗用になるし、そんな馬鹿なことを言うやつはいないだろう。

おもちゃになることすら、本来は肯定的に捉えるべきことだと思うんだよね。こういうことを拒むのはコミュニケーションの断絶を図るような要素が強くなってしまう。手話の話者は耳が聞こえる人と手話でコミュニケーションを取るべきではない、あるいは正式な通訳の人としかそうすべきではない、なんていう世界が正しいのであればこれでも良いのかもしれないけどね。隠れ里かよ。