novtanの日常

ネタです。ネタなんです。マジレスする人は撲滅すべき敵です。だからネタだってば!

バリアフリー問題はインフラ投資の政治的優先順位問題

すべての人のすべての要望に完璧に応える社会、というのが理想はともかく現実としては程遠い到達点である、ということ自体にはコンセンサスがある前提です。

おおよそ日本のインフラは老朽化が激しく、地方の過疎化が進む中でインフラそのものの廃止判断も進んでいく中で、残っているものには相応の理由と、条件があるわけですよね。問題を解決するのにはまずお金が必要ですし、投資対効果も必要です。投資対効果というのはトータルの話で考えるべきなので、代替手段があるか、その負担は相応のものか、等々の議論がなされた上で決定されるわけです。なんといってもそこではインフラの利用頻度の高い人の事情が優先されますし、判断基準になります。行ってみればこれは純然たるローカルの政治問題の部分です。とはいえ、社会インフラにおいては国の制度設計に基づく決め事がありそれを無視できなかったり、なんなら補助金が出ます。これの使いみちを曲げてしまうようなことは推奨されないわけです。ローカルの政治問題は、(それが地元に十分な金を落とさない限りは)あまり外来者のことを想定に置きません。その場合、国一律で見たときのべき論とは基準の異なる現実論が「これで大丈夫だろう」という判断で採択されることはよくあることだとは思います。ましてや、それを私企業に任せる以上は。上下水道がやたら値上がりしている自治体とかもありますよね…

この手の話をよく「利用者目線」「労働者目線」「経営者目線」のどこに立っているかでいやそこはお前たちが考えることではないみたいな話になりがちなんですが、どこの目線にたったとしてもこの話はあくまで(広義の)政治問題であって、現実的な解決策にたどり着くためには議論と調整が必要で、要求だけではなく妥協も必要、とにかく目的をどう満たすかが大事で原則は二の次、という話です。お金の話だから。お金の話ですよ?

原則は二の次、というのは言いすぎかもしれませんが、目的よりも原則が優先されてしまうと政治的な決着はつかない(お金がないから)か、悪い意味での政治的な決着(お金がないから)にたどり着いて永遠に行われる闘争だけが残る、ということもよくある話です。これ、日本の政治闘争にありがちな非建設的パターン。

この話は決して「原則を蔑ろにして良い」という話ではないんですよね。こういった問題を真剣に議論する人は誰しも原則どうあるべきか、ということはわかっているし棚に上げきっているわけでもない。でも、実際にうてる施策に限りがあることが目に見えているときに原則ばかりに拘泥するということは問題解決能力を持たないと言っても良いわけです。
そういった議論をすることを「経営者目線」と言ったりするのはなんかちょっと毒されてませんか、と思うわけです。現実的な妥協ポイントはどこか、って話をしているだけなんだから。
問題提起をする能力と問題解決を行う能力は違うとして、両方を併せ持っていたらよいんだけど、後者を持たずに前者を行う人は結構多いですし、それが悪いわけではない(というよりそういう人も必要)ですが、無条件に肯定するのも違うよなと思います。

ともあれ、リソース(お金)やニーズに限りがある中で、どういう優先順位で物事を決定していくか、は原則論自体は大事としても結局の所、ニーズをきっちりと見極め、カバー手段を検討して、改善していくことだと思いますよ。カバー手段が十分でない、という批判はあってもよいけど、やっていることが根本からおかしい、というのは大上段から提示できる話ではないですよね(もっと詳細に入り込んだ上で、ならわかりますが)。

社会問題は一休さんのトンチでは解決できない

意地悪をするお代官様がいないからな…

というか、差別的な状況において、心の底から差別をしたいと思ってそういう状況を作っている人なんてほとんどいないんじゃないかな(ほとんど、というとそうでもない気はしているが、建前上)。
実際の問題として、その状況の解決を阻むものは沢山あるけど、特に今問題になりがちなのは大体リソース不足に起因している、となると、リソースを手当する、という解決策をいろいろ考えなければならないんだけど、どうしてもそこで「原則的にはこうなんだからなんとかしろ」だけで言った気になっちゃう人はいるよなあと思ったりもします。

無人駅の問題でいうと、無人駅は有人の維持費問題を解決するための手段だから、そこで更に維持費掛かるとなれば廃止が現実的だよね。地元として駅を廃止しない要件としてサービスはどうでもいいからとにかく電車止めてを調整していたとしたら、サービスはどうでもいいというコンセンサスがあるとして存続を判断しますよね…とか。社会の諸々はそういう事情を元に行われているから、そこに斟酌しないということが必ずしも一方の当事者の利益にならないときに、何が優先されるべきなのって話にはなってしまう。ともあれ、「その駅から電車に乗る」ことと「その駅付近から電車に乗れれば乗るのはその駅からである必要がない」が等価であれば(つまり、目的が合致すれば)コストの観点で代案が考えられるかもしれないし、なれないかもしれない。原則的な自由は尊重されるとしても、現実の問題として「遜色ないサービス」が得られればそれは必ずしも差別されているとは言えないですよね。
これは現実解がこうです、といっているわけではなくて、議論の俎上に乗せるってのはそういうことですよね、という話です。社会への要請が「何が何でもその駅から乗りたいんだ。利便性とかは関係ない」であればそれはちょっとわがまま(というのは、他の問題でその駅から乗ることを諦めるケースだってあるから、特定のケースだけが特異的にフォローされることは良くない)だとは思うし、そうじゃない必然があればじゃあどうすればよいだろうねって考える。現状が「理想的ではない」ことについて異論がある人なんていないだろう(いるかも知れないが、それこそ差別主義者ではないか、と問いかけても良いと思う)。理想に対して現実解が「xxでなければならない」ということが本当に唯一解だったらいいんだけど、そうでないのであれば、「xxでなければならない」はわがままに見える。とはいってもそれを単にわがままと評価するのもあんまりよくないこととは思う。問題なのは、そういう議論を経ないで「xxでなければならない」だけが押し付けられるとそれによって負担が増える人は全く納得ができないだろうということ。

といってもね、原則論そのものについて「わがままだ」って言う人は少なからずいるよね(これは現代の意識としては「差別的」とされても仕方がない)。そういうのもカウンター言説みたいな登場の仕方をしがちなのが運動することの難しいところで、感情的なスイッチを入れてしまうと「俺たちの事情なんてどうでもいいのか」って反応になりがちだし、なかなかそういうのをオフにするのも難しい。

こういう話が「差別的状況」であること自体には議論は要らないと思うんだけど、現実にどう解決していくかってのは沢山議論をしていいと思うんだよね(そのときに「色んな」当事者を無視しないようにして)。こんなの特定の誰かが悪人であることに起因している問題じゃないんだから、罵り合ってもいいことないしね。というか、僕たちもそういう議論を「自明のもの」としてサボるようになってきていないかな。最近たまにそういうことを考えます。長く関わっている人ほど新規参画者のために知見を出していく(xxを読め、だけではなくね)ことも必要かなって思ったりもします。

ウマ娘ブームで競馬に久々に向き合った

ゲームはやってないんだけどさ…
ウマ娘が流行ったことで、過去の名勝負みたいな動画がやたら上がって面白い。解説は詳しいし愛が凄いなって思って楽しんでいるんだけど、僕自身は競馬についてすごく良い思い出があるというわけではない。僕が合法的に競馬で勝負できるようになった時期ってライスシャワーの悲劇があって、その数年後にあったサイレンススズカの悲劇がトドメになって競馬にそれほど入れ込むことはなかったんだよね(真面目に見てたのはディープインパクトすげーな、くらいが最後かな…)。そもそも馬券はほぼ買ってない。

でも、その後の競馬界も面白いじゃん。名馬あり珍馬?あり、色んなドラマが有って、レースの動画だけ観ていても楽しい。

依然として、ウマ娘をやるつもりは(色んな意味でヤバそうなので)ないんだけど、強い馬を眺めて楽しむってのはいいな。

大学の頃、(平日の)川崎競馬場で街頭コンサートついでにファンファーレを吹くってことがあったんだけど、その時の控室が馬場の横の半地下でちょうど目線の位置が地面になる窓があって馬が走ってくるとすごい迫力だったんだよね。競馬場でまた馬を見れるようなくらい、コロナ禍回復してほしいわ…